自由と平等(試考)

覚え書き
03 /18 2019
 自由というこ言葉は多義的であり、英語も主にfreedomとlibertyが使い分けられる。前者は「選択の自由・自律的選択」という意味が強く、後者は「束縛からの自由」の意味が強い。

 わが国では、バーリンの自由論の影響力を強く受けたせいか、或いは、第二次大戦中の国家っ権力による容易に言葉にし難い人権制限に対する反省の点からか、自由といえばliberty、即ち国家権力からの不当圧力による束縛の自由を把捉する傾向があるように思える。しかし、自由とは本来、与えられた生命を全うする中で自己実現をするためのものであるのだから、自分の人生の選択を自律的に自由に決定するfreedomの意味の自由と、その決定に際して権力的な妨害・抑制を受けないというlibertyの意味の自由の両方の意味を備えていると解するのが相当であろう。無論、放任や無秩序とは全く異なる概念であり、それらは混沌であって自由ではない。

 そして、近現代社会ではこうした自由をすべての人が等しく、つまり平等に有しているとされる。近代においては、自由選択の機会のみ保障されれば、その結果についてはすべて自己責任に帰せらせ、それは中世の比較的安定的であった時期以上の不平等と格差を生み出した。その反省として、現代社会では、個々人の特殊性や多様性を理解した上で、その差異を互譲によって補充することで、機会のみならず実質、すなわち結果の自由までもが求められるようになってきた。

 しかし、自由と平等の関係性ということに目をやるとその難しさに気付く。なぜならば、(あくまで放任でなく自律的な)自由ばかりを追求するならば、それは他己の自由との衝突を生じて平等が害され、反対に、平等を重視してすべてを平等の名のもとに制限的に管理するようになれば、今度は自由が制限される。こう考えると、自由と平等は定立と判定率の関係にあるように見えてくる。だが、そうだとすれば弁証法的に自由と平等を止揚することができるのではあるまいか?

 人間が社会的営みを続ける限り、内心の絶対的自由は除くいて対的自由は存在しないし、完全な平等や公正の実現などはどこまでいっても幻想の域を出ない。かつてアリストテレスは、中庸の徳こそがアレテー(卓越)であると説いたが、自由と平等の関係には、まさにこの中庸の徳が当て嵌まるように思う。

 自由は、たとえそれが自律的な者であっても、他己の自律性や自由を阻害するわけではないし(内在的制約説)、人間らしくあろうという意思と努力の欠缺する者にまで、何らかの事由によりそれが不可能であるなどの格段の事由のない限り、平等や公正を保障する必要なない。

 「人には平等に自由が保障されている」「尊厳と権利において平等である」と言ってみることは簡単である。しかし、この自由と平等の間に横臥する問題は容易く片づけられるものではない。

 まず、善悪に絶対性があるのか、そのことを明らかにしなければならないだろう。仮に絶対的な善悪の存在が明らかになれば、当該善をなす自由は平等でにあたえられるよう勧善されるべきであり、絶対的悪をなすことについては自由もなければ平等性もなく当然戒められるべきだと言えるからである。果たして、絶対的な善悪観とは、宗教上のそれは別として、本当に存在するのであろうか?それとも、多様性という相対的価値の中に埋没した状態で千変万化するものなのであろうか?

 次の機会にはそのことについて考えてみたいと思う。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。