権力の均衡および相互抑制構造の在り方

憲法概論
12 /18 2019
 近代啓蒙思想以降、権力の均衡と相互抑制の構造として三権分立の構造がとられている。しかし、一口に三権分立といってもそれには大きく2つの類型があり、それらは権力の均衡と相互抑制という終局的な目的は一つにしているものの、権力分立の在り方については相当程度異なっている。
 三権分立の在り方の2類型とは、ロック型とモンテスキュー型である。ロック型とは、民主的な意思決定機関である議会を他の権力よりも重視して、議会を媒介した市民の相対的意思に基づいて、他の権力、特に執行権力(行政権力)を強く牽制しようとする類型である。ロック型の三権分立構造をとる国家としては、連合王国(イギリス)と現代のわが国がその代表である。両国とも、過去において、強大かつ肥大化した執行権力による威圧と支配によって自由、平等、公正、基本的人権といった革新的諸価値が棄損された経験を持つ。つまり、ロック型を採る国家は、執行権力に対する強い不信を原因ないしは根拠として三権分立を導入しているのである。従って、わが日本国憲法第41条にいわゆる国会の地位、すなわち「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」という条文の「最高機関」とは文字通り、他の2権よりも民意の総体たる議決機関としての国会に力点が置かれており、執行権力と司法権力は、最高権力である国会の意思として結晶化された法令(主に議会制定法)に服すべきことを求めているのである。よって、「憲法第41条にいわゆる国会の最高権力性とは政治的美辞に過ぎない」などという主張は端的に言って誤りである。戦前のわが国は、統治権を総攬する天皇の権力執行の結果として、二度の核攻撃を被るという悲劇的結末を招来した。従って、執行権力に権力を集中させることの危険を歴史を通してよく経験したのであり、その反省からロック型の三権分立を採用しているのである。イギリスも同様で、絶対的な国王の執行権力に市民階級が抵抗する必要性から、執行権力を抑制、制御することが求められたのであり、ゆえに、わが国同様ロック型の三権分立を採用した。

 三権分立のもう一つの類型はモンテスキュー型である。モンテスキュー型はロック型とは異なり、立法権、行政権、司法権の3件を厳密に分立する。ロック型のような議院内閣制の構造はとらず、議会は執政長官(大統領)の選出に一切関与せず、執政長官もまた議会に対して解散などの決定的影響力を持たない仕組みとなっている。モンテスキュー型の三権分立は、議会に対する不信が強い国家において採用される傾向がある。例えば、米国の場合、本国では自由と平等という基本的人権に基づく近代的で民主的な政治体制が築かれている一方、植民地である米国に対しては、議会制定法を用いて不当な干渉と抑圧、搾取を容認するイギリス議会に対して強い不満と不信が蔓延していた。このように、議会に対する不信から出発する場合、立法権力と執行権力の相互干渉をできうる限り排して、議会が主権者たる国民にとって不利益を与える可能性のある法律を制定するような場合には、執行権力がその法律の執行を拒否できるような仕組みが求められるのである。

 このように、三権分立には二類型が存在し、そのいずれが採られるかは、その国民国家の近代化あるいは現代化に至る過程において、執行権力と立法権力のいずれに対する不信が強かったか、あるいは、近現代化をなしうる以前に暴走していた権力がいずれであったかによって決するといえる。それは各国の歴史的背景に裏打ちされて表出する姿形であって、ロック型とモンテスキュー方の優劣を語ることはあまり有意義なことではない。重要なことは、自らが主権者として所属している国家がどのような歴史的経緯を経て近代・現代に至ったかという過程を正しく把捉し、自国においていずれの三権分立が採られているかを理解することである。

 わが国において、アメリカと同様の厳格な三権分立構造を採るならば、おそらく輿論という名の強力だが必ずしも賢明でない意思に支えられた執行権力が、「強力なリーダシップ」等という妄言の下で、国家の利益を優先し、本来第一に保護されるべき主権者たる国民の権利利益を、公共の福祉、公共の利益を理由に制限し、侵害することを許すであろうことは想像に難くない。同様に、アメリカにおいてロック型の三権分立を採ったとしても、国民は自らが選出した偉大なる指導者としての大統領の意思を重視して、人々を害するような議会制定法が、立法権力によって形成されることを拒もうとするであろう。

 事程左様に、三権分立の在り方は、その国において三権分立が求められた背景に所以するのであり、優劣の問題ではない。安易に他国の仕組みを模倣したところで、歴史的経緯と齟齬がある場合は円滑に機能せず、機能麻痺を超えて害悪にすらなりうるのである。三権分立それ自体、ないしは各権力の相互浸潤や依存関係、際限の問題を論じるときには歴史的経緯を決して看過してはならないのである。

 わが国は、絶対的に強大な執行権力の暴走によって引き起こされた悲劇的歴史の経験から、執行権力を殊更強力に抑制すべき要請を抱く国家である。言うまでもなく、立憲主義を採る近現代的国家における権力は、社会契約としての憲法に基づいて形成されるが、わが憲法は、第41条にいうように、国会を国権の最高機関であるとし、また前文では、政府(執行権力)の行為によって再び戦争の惨禍を起こすことのない国家運営がなされるべきことを要請している。つまり、憲法を介して、国民は行政権力を強く牽制し統御することを求めているのである。このように、執行権力は、日本国憲法上、最も憲法の課す制約に強く服すべき存在なのであって、憲法により最も強固な緊縛を受けるべきものなのである。従って、執行権力の長たる執政長官(首班:内閣総理大臣)が、自らにとっての手枷足枷である憲法を変えるべきことを主張することは、原初的に倒錯である。枷が外れることは、枷を嵌められているものにとっては都合の良いことであるが、自ら枷を外せるようでは枷それ自体の意味を覆滅してしまう。

 さすがに、現首相もそのことはわきまえているようで、憲法改正を訴えるときには、内閣総理大臣としてではなく、議会(国会)与党の総裁として発言するよう留意しているが、所詮欺罔である。発言の内容に応じて立場を変えてみたとして、その目的は結局首相として執行権力を行使する際の枷を外すことにあることは間違いのないことであり、決して許されてはならないことなのである。憲法に最も真摯に服従すべきものが、先頭に立って自らの枷を解くべく改憲を主張することの異常性に国民は気づかなければならない。国民主権を採る立憲国家では、国の行く末を最終的に決める権威ないし力は国民に主権者たる国民に存しているのであり、国家の為に国民があるのではなく、国民の福利の為に国家が存在するのである。そして、その国民と国家の間の立場に係る契約が社会契約としての憲法なのであり、すべて権力は、国民の意思表明である憲法に厳に服さねばならず、自らその戒めを解かんと企図することは、主権者に対する重大な裏切りである。

 憲法改正の議論というのは、権力者の側から唱えられるべきものではない。それは時代の極めて大きな段階的前進の時宜において、人々から自然発生的な要請として求められるものでなければならない。権力者の都合で憲法を操作することを許す悪しき前例を作ることはきっと阻止すべきである。権力の側は、「憲法について議論してほしい」ということさえ、語るべきではない。かつて中世から近代にいたる過程において、絶対的執政権力者であった国王は、決して憲法について議論してほしいとは語らなかったが、産業革命を経て資力において大きく成長した市民階級が、自然的に自らが天賦の人権を付与されていることを見出し、憲法によって国家を統治すべきという概念を生み出したのである。憲法が作られる、あるいは改められるときというのは、このようでなければならない。くれぐれも、権力の甘言や欺罔に惑わされて、権力主導の改憲を許してはならない。

 憲法は優れて国民のものであり、国家に対する国民の権利章典である。ゆえに、それを改廃・修正する権威は主権者たる国民に専属するものであって、畏れ多くも権力は、改憲について自ら言及することは厳に慎むべき地位にあるということが広く周知されることを願う。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。