改憲議論 憲法と国民の義務

憲法概論
10 /27 2019
 近現代意味の憲法(または立憲的意味の憲法)は国家の基本構造を示すと同時に権利章典であることは以前述べた。従って、憲法に記載すべき内容は本質的に国民の権利である。では、憲法に国民の義務を記載することは妥当であるのか、また妥当であるとする場合、どのような義務の記載が許容されるのか、それについて検討したい。この検討は、特に緊急事態条項を憲法に盛り込もうとする際、権力による国民の権利制限の射程をどの程度に設定すべきかを画定することに資するであろう。
 そもそも日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原理とするほか、納税、教育、勤労を国民の三大義務としていると学校教育(普通教育及び高校における高等教育)において教えられる。これを文字通りに捉えれば、憲法に権利のみならず、国民の義務を記載することは許容されるようにも思われるが、果たしてこの理解は妥当なのであろうか。結論から先に言えば、憲法に国民の義務を積極的に記載することは妥当ではない。近現代的意味の憲法はやはりその根本において権力について抑制的であるべきであり(狭義の立憲主義)、権力の作用によって保障されるべき国民の権利を宣明する性質を本質的に有しているからである。それでは、何故に、納税、教育、勤労については、これらを国民の三大義務として日本国憲法に記載しているのであろうか。

 これについては、「権利のみを主張しても、実体的・実質的に国家を運営するためには、国家を本質的に国民のものであると考える以上、国家を主体的に運営すべき主権者の立場である国民が、国家を支持し持続させるために一定の義務を負うのは当然である」という説明がしばしばされるが、厳密にいえばこの説明は正確ではない。その理由を知るためには、国民の三大義務の内容を精査する必要がある。

 実の所、国民の三大義務として述べられている事柄は、いずれも純粋に国民の義務を宣明するものではない。

1 納税の義務

 国家といえども、市場経済における主体のひとつであり、そうである以上、活動を行い国民に福利を還元するためには、運営及び活動の為の資力を要するのであってその資力を獲得しなければならない。国家は国民の納税を介して資力を得るのであり、国家の活動による福利は国民がそれを享受するのであるから、国家に適切な活動をなさしむる為に主権者たる国民が納税義務を負うことは至極当然のことであるように思われる。確かにこのような理解は誤りではないが、必要十分な撮名であるとは言えない。これについて理解するには憲法の社会契約的性質について知る必要がある。

 国民を主権者とし、国家の活動によって得られた福利は国民がそれを享受するという近現代的意味の憲法(狭義の立憲主義に立脚する憲法)は国民と国家の間に締約された社会契約の側面を持つ。すなわち、元来主権、すなわち国家の在り方を最終的に決める権威ないし力は各個の国民(プープル主権的主権)ないし国民の総体的な意思(一般意思:ナシオン主権的主権)に所在するが、点在する主権を糾合してひとつの纏まりある国家の意思を錬成しなければひとつの行為主体として国家が活動することはできない。そこで、主権者たる国民は民主的な意思決定過程(すなわち選挙)を通して自らの政治的信条を代表者に付託し、その代表者集団が議会を形成し、その多数派が政府を構築することによって権力を有形化して国家は誕生する。そして国民は自らの意思を反映した正統性を有する権力の決定であるがゆえに(すなわち自らの意思の反射であるがゆえに)議会の制定した法律を是認し、政府による法律の執行に自ら積極的に服するのである。事程左様に、憲法とは、国民による国家権力への正統性賦与と、正統権力による国家の統治の結果得られた福利を主権者に還元すべきことを社会という場において約する契約、すなわち社会契約なのである。

 それでは、憲法が社会契約であるという事柄と納税が国民の義務であるという事柄はどう連結するのであろうか。国家への納税とは、先に述べた通り、主権者が国家権力に正統性を賦与し、権力に活動の為の資力を供与することを意味する。つまり納税の義務を国民が負うという事柄は、翻って言えば、納税する国民には、自らの意思に従って国家に主権を委譲し、社会契約を締約し得る地位が存するという事を示すものであり、いわばこれは国民主権を納税という視点からとらえ直した表現なのであって、優れて権利性の強いものなのである。端的に言えば、納税の義務と主権者たる地位は表裏一体の関係を為しているということである。

2 教育の義務

 教育の義務については、もはや述べる必要はないであろう。周知のとおり、教育の義務というとき、それは国民が「教育を受ける義務」を負うことを意味するものではなく、国家及び親権者は将来主権を担う子女に対して必要な教育を受けさせる義務を負うことを意味したものであり、子女の立場に立てば「家事労働や児童労働に拘束されることなく、能力に応じて随意に教育を受けることができる」ことを意味するものであって、いわば権利教育なのである。すなわち、義務教育とは、子女の教育を受ける権利を、国家及び親権者の義務の視点から表現したものなのである。

3 勤労の義務

 勤労の義務もまた同様である。市場経済における競争を是認する以上、勤労しない事由があると言ってみたところで、それは飢えて死ぬ自由でしかない。我々が生存を維持するためには労働が不可欠である。そして、奴隷的・強制的苦役を免れて人間らしい労働に従事できることは、人間らしい生存を維持するためにはなくてはならない要素である。また、日本国憲法は社会権として労働三権を定め、労働が人間らしいものであることを要請している。つまり、日本国憲法における勤労の義務とは、人間らしい労働に従事して人間らしい生存を維持できる権利を国民が有することを義務の視点から裏返しに述べたものなのである。

 このように、日本国憲法に国民の三大義務として述べられていることは、いずれも国民の権利の裏返しであり、権利と裏腹の関係を成す内容を義務の視点から述べたものであって、純粋に国民の権利を制限し義務を課すものではない。近現代的意味の憲法が本質的に権利章典である以上、そこに記載される内容はすべてなんらかの権利性を有している必要があり、単に国民の権利を制限し義務を課す内容を目的とする条項を入れることは、近現代的意味の憲法の根本原理に照らして相応しくないのである。

 よって、緊急事態条項を憲法に盛り込む際には、それが国民の権利を擁護するために書かれる必要がある。従って、緊急事態に臨み、主権者たる国民の意思の反映である法律に依拠することなく、執行権(行政権)により多くの権力を集中させることを内容とするような緊急事態条項は決して入れるべきではないのである。緊急事態においてもなお、国民の執事たる国家はあくまでも国民の権利を保護しその安全を保障するために活動すべき社会契約上の義務を負うのであって、緊急事態に仮詫して国民の権利を制限し単に義務を課すことは絶対的に許容されないのである。このような趣旨内容の緊急事態条項が、如何に過酷な結果を国民に強いることになるかは、かのワイマール憲法下におけるナチス・ドイツが歴史において既に証明したところである。

 近現代的意味の憲法は、あくまでも国民のための権利章典である。そこに記載されるべきは国民の義務ではなく、国民の権利であることを決して忘れてはならない。文理的表現上、義務の形式をとるにしても、その実質は国民の権利を表現していなければならないのである。従って、日本国憲法に緊急事態条項を加筆しようとするのであれば、緊急事態における国家の義務を記述することによって国民の権利と利益が擁護されるように書かれている必要がある。

 以前の拙稿で述べたことと重複するが、憲法に緊急事態条項を盛り込むのであれば、「戦争、争乱、大規模災害その他国民生活に重大な影響を及ぼす緊急事態が生じたときは、国家、各行政機関並びにすべての公務員は、国民の生命、身体、自由、財産を保護するために、法令に基づき、最大限の配慮を為し適切な措置を迅速講じる義務を負う」とすれば足りる。 これ以上のことを憲法に記載しようと試みる者には、緊急事態にかこつけて不当に国民の権利を制限し義務を課すことによって相対的に国家権力を強力ならしめようとする邪な野心があることを我々は看破しなければならない。

 近現代的意味の憲法ないし狭義の立憲主義に立脚する憲法の社会契約的性質及び権利章典的性質が正しく理解され、憲法に国民の義務を置く際には、必ず国民の権利と表裏一体の実質を有し、あるいは義務の形式を通して実質的に権利を言明する者でなければならないということが、広く国民に正しく理解されることを願う。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。