改憲議論2 新しい人権加憲説

憲法概論
09 /02 2019
 日本国憲法制憲(改憲)後、70余年の月日が経ち、その間に制憲当初には人権カタログに列挙されていなかった新しい人権が司法の法規創造的作用によって保障されるべき新しい人権として認識されるに至った。具体的には、プライバシー権と知る権利、そしてそれに準じるものとして環境権がその好例である。前2者は憲法上保障される新しい人権であるとしてまず異論なく、環境権についてもそれを新しい人権として認める向きが大勢を占めている。

 改憲を主張する者の中には、これら日本国憲法制憲後(明治憲法からの改憲後)に誕生し、広く認識されるに至った新しい人権を、明示的に日本国憲法の人権カタログに追加しようという主張がある。なるほど、解らない話ではない。近現代的憲法は権利章典の性質も有しているのであるから、保障されるべき人権カタログはより充実しているに越したことはない。

 では、この「新しい人権加憲説」は受容されてしかるべきものなのであろうか?
 結論から先に言えば、この「新しい人権加憲説」の主張は、現憲法の人権カタログに関する日本国民の叡智とも言うべき核心を看過しているか、自身の本心としては改憲に積極的ではないが、何らかの事由によって改憲積極勢力に与する必要がある為、改憲を正当化する理由を探している者達の主張と言って大過ないであろう。

 妙な譬えを用いるが、次の数列を見て欲しい。以下の数字はある規則に従って並んでいる。
 0、3、12、27、48、75…

 この数列の100番目の値は29403であり、500番目の値は747003、1000番目の値は2994003である。察しの良い読者諸氏は既に気付かれているであろうが、この数列の一般項は3(n-1)^2〔※^はべき乗を示す〕である。数列においては一般項さえ分かっていれば、nの値が幾つであろうとも、計算によって容易にn番目の数値を求めることができる。すなわち、一般項の既にわかっている数列においては、その特定のn番目の値を殊更に示すことにはあまり有意義ではない。

 これが憲法の、しかも新しい人権加憲説とどう関係するのであろうか?それに答えるには日本国憲法第13条の規定を引く必要がある。

 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」(日本国憲法第13条)

 この条文からわかることは、日本国家は国民の生命、自由及び幸福追求に対する権利について、最大限の尊重をすべき義務を負っているという事である。つまり、第13条は、新しい人権は国民の利益に適い、かつ公共の福祉に反しない限り、無限に生み出すことができることを規定してるのである。これは、先に例を挙げた数列の一般項と同じ機能を果たす条文である。日本国憲法は、なにがしこれがしの人権は保障されるといちいち列挙しなくとも、第13条に基づく限り、次代や社会の変化・要請に応じて求められる新しい人権を自在に生み出すことができる仕組みを備えているのである。ある大学の憲法の授業ではこの第13条を「某有名猫型ロボットのポケット」に譬えて説明されるが、まさにその通りである。唯一の例外は公共の福祉に反場合であり、この例外に関わらない限り、日本国憲法の人権カタログはいくらでも拡充することができる。すなわち、日本国憲法は人権カタログについて、一般項を有しているということができる。

 一般項の既に分かっている数列において、その特定の値を取り立てて示してみることに大した意味がないのと同様、公共の福祉に反しない限り、人々の要請に応じて無限自在に新しい人権を生み出すことができるとしている日本国憲法に、幾つかの特定の新しい人権を列挙してみることにはほとんど意味がないのであり、司法権の運用上、その新しい人権に基づく司法判断が適切に行われさえすれば十分なのである。

 人権カタログに新しい人権を追加する様式での加憲は、全く無意味とは言わない。人権カタログの充実は国民の利益に資するからである。しかし同時に、自在の人権創出を可能する叡智を備えた日本国憲法の人権カタログに、特定の人権の幾つかを追加してみたところで、それほど大きな意味をもつわけではないことを知っておく必要があろう。

 事程左様に、新しい人権加憲説は、全く無意味ではないが、民主的に大きなコスト(国民投票に係る費用など)を費やしてまで為すべきである程の決定的な意味を有しているともまた評価できないのである。

 先にも述べたが、新しい人権加憲説を唱える立場は、自身の主張としては改憲の必要を実は感じていないのだが、なんらかの事情により改憲積極勢力に与する必要があるために、自身の支持者の理解を比較的容易に求められる理論構成を必要とする立場の主張であるという事ができる。このような目論見に基づいて改憲を許すことが本当に正しいのかどうか、一度立ち止まって熟慮すべきと言わねばならぬであろう。

 繰り返しになるが、第13条ある限り、日本国憲法の人権カタログは千変万化が可能であり、時代、社会、人々の要請の変化に応じて、公共の福祉に反しない限り、新しい人権をいくらでも生み出すことができる画期的な仕組みを備えている。その意味に於いて、新しい人権加憲説の説得力はごく限定的なものであるというよりむしろ率直に言って有意義とは評し難いというのが妥当であると思料する。

 逆に言えば、我々日本国民は、第13条に手が入ることに細心の注意を払わなければならない。例えば、第13条の「個人」が「人」に変わるだけでもその影響は計り知れない。「個人として尊重される」というとき、それは個々人の特殊性を考慮に入れた上で、その差異に留意しながらもひとりひとりの人権が尊重されることを意味するが、「人として尊重される」とされれば、個人の特殊性は捨象され、憲法(即ち日本国家)が「人」と見做す一般的な属性の者の人権しか保障されないことを意味するのである。

 個々人は固有の特性と多様性を有している。従って、人は個人として尊重されて初めて、その人権は確かに保障されたということになる。国家が「人」と見做す者の人権のみを保障するというのは、一見、一般普遍化されてより人権保障の範囲が拡大するような錯覚に陥るが、文字通りそれは錯覚であり、現実にはむしろ人権保障の範囲は狭隘化する。

 日本国憲法と言えば、専ら第1条と第9条が問題とされるが、実は人権保障の核心は第13条にあり、日本国民の人権保障は13条により盤石なものとなっている。しかし、残念ながらこの事実は意外に知られていない。第13条は個人の人権の尊重と公共の福祉という社会的な人的結合との調和を図る為に設置された人権保障に関する我等日本人の叡智の結晶であることを多くの人々に知っていただきたいと願って止まない。
 
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。