自由論試考

覚え書き
03 /16 2019
 私は、法理学や法哲学を専攻したわけではなく、実務法学を主として学んだにすぎない者なので、かような者が自由論を論じることには大層気が引けるが、実質的平等の実現を真剣に考えるのであれば、自由論は避けては通れない道であり、分不相応は承知の上で自由論について試行することにした。

 まず、自由とは何か?と問われたら、それに答えることは容易ではない。ただ、「自由とは束縛されないことだ」とはいうことができるかもしれない。では、その「束縛」とは何であるのか?すなわち、何からの自由なのか?

 これについて、わが国の法律学の世界ではバーリンの自由論の影響が強いためか、自由といえば「権力からの自由」という認識を持たれることが多いが、しかし、自由とは、必ずしも個人の人生上の選択に対する国家権力による(概ね不当な、あるいは不合理な)介入からの自由だけを意味するわけではない。
 確かに、自由には2つあり、その一つはたしかにバーリンの自由論が語るように権力や権威などの枠組みからの自由であるが、それに加えてもう一つ、自然法則からの自由ということがある。自然法則からの自由(反対に言えば自然法則による制限)とは、要するに、何の備えもないままに十分な高さのある崖から飛び降りたら死ぬという意味であり、人間が自然法則から逃れることの困難さを表現するものである。権力も自然も、いずれも、結局にして人間の「自由な」選択に一定の制限あるいは制裁を加えるので、その性質の共通性からこれらを「二重の自然」と呼ぶことがある。

 実は、近代もしくは現代の希望をより強調するために、中世という時代やそれを象徴する絶対王政的封建社会は過激に暗黒であったように語られるが実はそうではない。中世以前は、前述の二重の自然の枠の中にとどまって、無謀その枠から飛び出ようとしない限り、人生の安寧は保障されていた。その意味で、中世的封建社会は、近現代において語られるほど暗黒ではなかった。

 しかし前近代(最近は世界史でも、この時期を近世と称するのが何とも面白いが)にあって、産業革命を成し遂げた我々市民は、獲得した莫大な資金力を背景にこれら二重の自然の内、世俗権力を排除して自らが主権者となる権利を獲得した。つまり、二重の自然の内の一つの枠を打ち破り、特に国家の設営と運営という点における自律性を勝ち取ったのである。それは人類史上、極めて劇的な出来事であったので、「自由とは国家権力の(不当な)介入からの解放をいう」という認識が強く印象に残るのであろう。確かに、我々市民は、市民革命または2度の大戦後の民主化を経て権力からの自由を獲得したが、しかし今なおもう一方の自然(便宜上、今後これを天然の自然と呼ぶことにする)の枠からは完全には出られていない。

 確かに、科学技術の驚異的な発展・発達により、交通能力は飛躍的に向上し、情報交換能力に至ってはもはや時間的制限すらないように思えるほどの高速化を実現し、地球という物理的時空は極めて狭小化した。医療面での発達も目覚ましく、おそらくそう遠くない将来、我々は欠損した身体を修復し、不治の病から回復し、更には親の望む遺伝的要因を備えた子の出産すら実現するであろう。しかし、それでもなお、我々は、権力から自由であるように、天然の自然から自由であるわけではない。死を克服することはできず、与えられた時間は有限であるからだ。そして我々はその有限の時間を労働に費やすことによって生存を維持しなければならないのであり、従って時間の使用については実に不自由なのである。

 もっとも、飛行機は我々に大空の旅を可能にし、船舶は偉大な地理的発展をもたらしたし、情報技術は伝達だけに限って言えば、もはや時空を超越した。しかし、それでもなお地震予知は確実ではなしい、台風、大雨、大雪といった自然的驚異から完全に逃れることはできていない。結局、天然の自然からは不自由なのだ。権力から自由であることが、天然の自然からの自由を保障してくれるわけではないことをまずは知る必要があるだろう。

 ところで、私は更に、我々にはもう一つの不自由があるように思う。それは将来の不確実性の不自由である。我々は過去から学ぶことはできるが、将来については推測し、予測することはできても、選択に先立って当該選択の結果を知ることはできない。権力からの自由は既に獲得したし、天然の自然については、飛行機が雲の上の景色を見せてくれたように科学・医術の進歩が解放へと導いてくれるかもしれない。昨今、特に医療分野においては、容易に信じられないような快挙が続いている。いずれは若返りや死からの解放さえあり得るかもしれないような勢いさえ感じる。 しかし、それでもなお、選択結果については不自由なままである。果たして我々は選択結果の不自由から解放され、結果についての自由を獲得することはできるのであろうか?

 私は、この「選択結果からの自由」という事柄こそ、実質的平等を実現するための鍵であるとみている。なぜならば、我々の人生は選択の連続であり、ごく些細なことから生死を左右するような事柄まで、あらゆるとき、あらゆる場面で選択を迫られる。その意味で、人生とはまさに選択結果の蓄積である。

 問題は、我々のする選択が常に正しい(選択者にとっての利益になる)わけではないことである。一般的には、まずい選択をして後から後悔するという方が多いのではないだろうか。しかし、その選択の結果の責任は、近現代社会においてはすべて「自己責任」という形で選択者本人に帰せられるのである。「自由意思の発露であるが故に、その意思表示の結果に拘束される」というのが近代市民法の大原則であるからだ。しかし、この理論は、あらゆる場面で無差別的に適用されてよいのであろうか?詐欺・強迫により意思表示に瑕疵がある場合は無論だが、そうでない場合、つまりまったく自由に意思表示が可能である場合でも、選択を誤ることがある。なぜなら、選択の結果を選択の時点で知ることができないからだ。

 では、選択結果を確定的に知ることのできない状態でされた意思表示は、本当に「自由意思の発露」ということができるのであろうか?私はこのことに強い疑問を感じる。

 国家制度が非民主的で、選択の自由すらないというのは論外であるが、民主的で自由意思が尊重されるわが国のような国家にあってもこの問題は残る。進学の選択、就職の選択、結婚の選択、家族形成の選択、転職の選択、人生において我々は実に様々の選択を絶えず迫られ、その結果がどうなるのかについて確定的なことを認知できないまま予測のみに頼って選択をなすことになる。そしてその結果の責任は、すべて「自己責任」の一言で片づけられてしまう。しかしながら、選択を誤ったことに対する責任は本当に「自己責任」とすべきなのであろうか。「判らない」とうことは効果意思形成に影響を及ぼす重要な要素であると考えるが、そうであるならば、結果が判らないで為した意思表示については何らかの父権的な助力が与えられるべきではないだろうか?

 ここまでを整理すると、次のようになろう。

 我々には自由がある。自由とは制約を受けないこと、つまり自律的に選択をなし得ることである。そして、我々の自由を抑制するものとして、権力、天然、将来の不確実性の3つがある。権力からの自由については市民革命によって既に獲得され、天然からの自由は科学技術の進展により漸次的に保障され得るだろう。しかし、将来の不確実性からの自由についてはほとんど方策がないのが事実である。保険は確かにこの問題について一定の解決策を提供するが、あらゆる選択が失敗して資力的に限界線をこえているような状況で保険に助けを求めることはできない。やはり、将来の不確実性の檻から我々が自由になることは、容易ではないのだ。他方、この自由を獲得すれば我々は人類史の段階を一歩進めることができるように思う。

 それでは、具体的な方策としてどのようなことが考えられるか。まず思いつくのは、福祉国家的な公的扶助により選択を誤って困窮したものを救うことである。ただこれには政府の資力的余力という要素次第であるので、こればかりに依拠することはできないし、更に、国家はこの負担を回避して成長戦略なり安全保障なりに資力を振り向けようとする傾向が強い現在においては望むべくもない。

 思うに、この将来の不確実性からの自由を実現する方法は、実質的平等を実現することであろう。蓋し、実質的平等が実現すれば、選択を誤り困窮したとしても、その困窮は社会的に補充され再起を期す機会が与えられるからである。結局的に公的扶助と同じことを言っているように見えるかもしれないが、そうではない。市場経済における競争社会では必ず過剰な利益を得る者が出現し、他方で困窮極まる者が存在する。ならば、あまりに過剰な利益を徴収し、一定水準を下回る部分に補充することはできないものかと考えたいのである。既存の制度を例にとるなら、累進課税を徹底させる等がそれにあたるであろう。要するに、上下に伸び切った貧富の差について、上を切り取って下にあてがい、中間部を厚くできる仕組みを考えたいのである。

 確かに、利益を得る者は、自らの才覚を活かし、あるいは生涯を賭ける思いで事業に注力してきたその結果なのであるから、自らが生み出した付加価値を自分のものとするのは当然である。しかし、考えるべきは「競争」の性質である。「競争それ自体は悪ではない:Competition is not evil itself.」と言われるように、市場経済における競争は必須であり、それは善悪理非を問うような事柄ではない。ただし、競争という要素は、勝利と敗北という構造と不可分一体であり、圧倒的大多数の敗者と、極小数の勝者というピラミッド構造をとることはもはや語る必要らあるまい。肝心なことは、「敗者なくして勝者無し」ということである。勝者が存在できるのは、圧倒的大多数が敗北してくれたからなのだ。つまり、敗北は競争という必須原理から切離不能な要素だということである。従って、勝者が全てを得、敗者は搾取されるという構造は誤りであり、是正されるべきと考える。無論、努力は必要である。努力なく無思慮な選択をした結果が望むもではなかったというのは、文字通り自己責任である。しかし、努力し、辛酸をなめ続けたにも関わらず、敗北を喫するような者を救済しないのは、まさに人権の侵害であり、社会契約を通じて国民の基本的人権を保障することを最優先任務とする国家の怠慢と言わねばなるまい。機会の平等、すなわち自立的な選択の自由を平等に付与するだけでは不十分である。生きる意思を持ち、当該人にできる限りの力を尽くして選択をしたのである限り、選択結果の良悪とは別にその意思と努力の過程が報われる義務を国家は負うべきであると考える。

 すべての人が、(無論、積極的生きようとする、ないしは進んで社会的関係を維持しようとする意思は求められるが)選択の如何に関わらず基礎的生活は保障され、成功を収めたものにはその基礎的生活分を賄ってなお残った余剰部分から、成功の程度に応じて相応の褒章を与えればよいのではないかと考える。

 標準的な人間ひとりが生涯に要する費用に人口を乗じ(基礎的生活分)、その値を国民総生産から引いて余剰を求め、その余剰を成功度や負担義務の多寡に応じて案分比例するような仕組みをとることはできないものであろうか。

 引き続き、自由と平等について考えていきたいと思う。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。