22世紀を見据えて

憲法概論
08 /13 2019
 主権とは、自らの在り方を自律的に決定する自由であり、権力とは、社会という場においてその自由を統御するための構造体である。ではなぜ社会は権力を必要とするのか。それは無制約の自由と原始的な道徳規範のみでは、社会における個々人間の相互関係を調整しきれず、社会的共生を前提としたより善い選択を妨げ、自由の名のもとに社会を瓦解させる虞があるからである。
 道徳は法の源泉であると同時に、法の正邪を評価するための内心における直観であるといえる。道徳無くして法無く、法が無ければ道徳はごく個人的な選好の基準となるよりほかの作用を持たない。法と道徳が有機的に連関し、社会関係の維持・持続を背景として、個人の選択的意思決定ははより自律的でより善い方向へと導かれるのである。

 個人は、通常自己の委譲した主権の一部を媒介して制定されるがゆえに、議会制定法に服するが、議会は時に悪法を生むこともある。そのような時には、個人は、自己の内心、或いは所属する地域社会において共有される道徳的直観によって議会制定法の正邪を判断することが可能となる。

 道徳と法は、当に相互依存的な定立と反定立の関係にあり、これらが止揚するとき、個人の選択を社会的共生を目指すべき善き方向へと導く新定立となるのであり、私はカントの格率に倣い、本来的には清濁混合の無制約の自由を善き方向へと絞り込むという意味で自由率と呼んでいる。

 法も道徳も、個人が社会的により善い選択を為し、より善く自己実現し、より善く生きるための規範である。人生は難しい。不確実であり、正解のない問いに答えるように選択を為すべきこがを求められる。そして現代では、その選択の責任は「自由意思の結果」として全て選択を為した当人が追うことになる。

 近代において、権力からの自由を成し遂げ、科学技術の目覚ましい発展によって自然法則からの自由も大きく前進している今、我々が直面するのは、将来の不確実性の檻に囚われているという現実である。将来の不確実性からの自由などというと、一見不可能であるかのように錯覚するが、世界的な統計資料を駆使すれば、人々の生存に必要な経済的需要は計算でき、それに留まることなく安全を保持するための費用、事後実現を果たすために要する経済的負担の全体像を算出することは可能なのであり、かつ世界的な富の送料も計算できるのであるから、分配率を求めることは決して不可能ではない。

 即ち、簡単ではないにせよ、富の創出と分配率というこれらの諸要素は数学的課題として解決可能な問題でもあるのだ。最も安易な方法としては、人ひとりが生涯において標準的に消費する年額に人口を乗じて需要を計算し、まず当概年の国民総生産からそれを減じて平等に分配し、続いて残余の余剰を案分比例して分配することが考えられる。このときの案分比例によって所得の少ないもにはより多くを、所得の多い者の分配量を減らせば、平等に相当程度接近することができる。

 いずれにせよ、社会の末端に至る程の広範な不平等と格差を生んでいる現在の不況は明らかに、圧倒的な需要不足と富の分配の著しいな偏在にこそその原因があることは間違いないとみて差し支えない。政府発表の経済指標は比較的良好な数値を示してはいるが、その一方で、ブラックバイト、詐欺、低賃金長時間労働、経営句による自殺・心中が後を絶たない。国家的な富裕というマクロな視点のみならず、国民ひとりひとりの状況を把握するミクロな視点を政府は持つべきである。従業員を1日8時間、週40時間労働させて、年収200万円程度のワーキング・プア水準の低賃金しか支払えない生きる屍のごとき企業は、すぐにでも経済的及び人的資源を市場に還流して、自由経済市場の新陳代謝向上に貢献すべきであり、監督行政庁においても、いくら憲法上経済的規制は消極的規制とされているとはいえ、もう少し積極的に父権的介入を為して欲しいと思う。

 個人の生命と自由は皆等しく重要でかけがえのないものである。国富の為に個人を犠牲にすることはあってはならない。我々はすでに22世紀に向けて動き出している。価値相対主義を克服し、結果における実質的平等の実現を成し遂げるべき理論の構築こそ、次代へ繋いでいくための課題であると観念する。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。