社会契約の二重構造性

憲法概論
08 /12 2019
 主権(その国の在り方を最終的に決める権威ないし力)は本質的にはその国家の人民たる個々人に付属しており、自律的自由に行使し得るべき性質のものであるが、各人が手前勝手に自由を行使するならば、社会的な調和は困難を極め、また鋭く対立するにまで及ぶときには、実力による自力救済に依存するより外なく、実力による支配を容易に許すことになる。 

 しかし、我々は実力によって優劣を決するしかない諸動物とは明確に一線を画する存在であり、道徳的直観や他者に対する同情や推定といった固有の能力を備えている。よって、個々人間における自由の水平的互譲と、権威の垂直的委譲という社会的枠組みを構築して法を定めることを通して、諸問題を解決するとともに、より善くあるべき姿を追求し、もって社会的動物として生存を維持するのである。

 それを現実のものとするためにも、全世界的規模で、社会の行為主体たる主権国家及びその国民が水平的に自由を互譲するとともに、主権の最高性をも超越して世界秩序の維持・管理をする機構に主権の一部を委譲するという二重の構造を築かなければならないであろう。すなわち、民主的な過程を経た世界政府の樹立こそが、その処方となることはおそらくあるまい。

 今という時代において必要なのは、バラン・オブ・パワーの発想による自国国家の保身ではなく、全世界的な規模による民主的統治機構を現実のものとすることである。
 そのためには、まず、我々の動物的側面(飲料水、食糧、エネルギー資源)に関する諸要素の配分を実質的に公平に行うべきであり、それが完遂された後には、経済的諸活動により創出された富の再分配を適切に行わなければならない。富はいわば血液であり、循環にこそ意味がある。如何に多くの血液があろうとも循環が不全であれば鬱血し、ひいては身体というシステム全体を機能不全に陥れる危険すらあり得る。

 望むと望まざるとに関わらず、新自由主義と結合した経済のグローバリズムは既成のものとなり(その善悪の評価も定まらぬままなに)各国の経済的相互依存はもはや原状回復不能な段階にまで到達した。従って、もはや後戻りできない我々人類は、このグローバリゼーションがもたらした結果についてよく分析・検討を重ね、利害得失をよく勘案した上で、その利点を活用し、欠点を修正・補充し克服する仕組みを世界横断的に構想できなければ、核の脅威とはまた異なる論理によって、人類は死の淵へと誘引されることになるであろう。

 そうならなないために、戦後スキームと呼ばれた枠組みが何を目指し、その手段として世界を席巻したグローバリズムが如何なる福利と害悪を人々に齎したのかを顧慮しなければならないであろう。

 戦後スキームは、確かにほとんど前進していないどころか、むしろ一部に後退さえみられるが、「人類である」という共通基盤を結節点として人々を緩やかに統合し、もって世界平和を実現するというその方向性そのものに間違いがあるわけではなく、誤りがあったとすればその方法であって、概念それ自体ではないことをもう一度思い出し、戦後スキームの完成にこそ注力すべきであると思料する。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。