労働と富の再分配について

所感雑感
08 /12 2019
 労働は、人類が生存を維持する上で欠くことの出来ない要素である。労働によって、生存、及び生活維持に必要なものを産み出すというのみならず、労働は付加価値を創出して富の源泉となる。そして、その富は徴税という制度を通して国家の所得となり、社会保障、教育、防衛、防災等、主権国家には不可欠の領野における資金となる。このようにして我々は国家という枠組みの中で生活を営むことが可能になるのであるから、人生と労働を切離することは、自分一代ではとても使いきれないほどの遺産を相続するといったような例外的な幸運に恵まれない限り(もっともその遺産も誰かの労働の産物であるが)、不可能である。

 聖書は言う。労働は人々の現在に対する罰であると。聖書を信仰するか否かに関わらず、人が原則的に労働の必要から逃れられないことは事実である。しかし、科学技術は目覚ましく発達し、社会構造が複雑化した今日にあっては、労働についても、その難度、もしくは負荷に応じた多様性が生じることとなった。そして、より高度で難しい労働をこなし、より多くの多くの付加価値を創出した者は多くの分配を受け、そうでないものの分配は小さくなるという市場原理が定着し、これは当然の帰結であるとして広く定着している。そしてここには競争原理が自然的に加味され、より多くの付加価値を生み出すことに成功すれば勝者となり、付加価値の創出の程度が小さい者は敗者となる。
 このようにして、恒常的に格差が生じることとなるのであった。現在、我々はこうした労働に纏わる関係性をごく当然のこととして受け止め、疑うことすらしない。そして、幼少期から競争を繰り返し、勝利を目指して邁進し、少しでも多くの付加価値を生み出してより多くの富の分配を得ようと力を尽くす中で、人生という有限の時間を消費していく。「競争それ自体は悪ではない」という著名な言明が示唆する通り、こうした富の分配に関わる競争の中で、より優れた多種多様な商品やサーヴィスを産み出し、現在の反映を築いてきた。その意味では、競争の勝者、すなわち創出した付加価値の多寡に応じて富の分配率が定まるという構造は誤ってはいない。しかし、労働と富の分配について「本当に」このままでよいのか疑ってみることには、意味があるように思えてならない。基本的に産業構造は、農林水産業及び鉱産資源等産出に関する第一次産業、製造加工に関わる第二次産業、そして金融、教育、各種サーヴィスを担う大三次産業に分類され、より高次の産業に従事する程、もらい受ける分配量が増すのが一般的である。

 これを国家の水準に置き換えると、農林水産資源や工業資源の輸出に依存する(しかも、大抵が1から数品目に限定される)モノカルチャー経済、加工貿易国、次いで金融・サーヴィスの提供国となり、後者程大きな付加価値を生み出すとともに、より大きな富を得る。これは一般社会において至極当然のように受け止められているが、本当にそうであろうか。

 というのも、高次の産業は高付加価値によって我々の生活を豊かにするが、他方低次の、特に第一次産業は我々の生存の基盤を支えている。こう考えると、あらゆる次元の産業は有機的に連携して我々の生活に寄与しているのであって、序列を定めるべきものではなく、社会全体における役割の分担と捉えるべきだと思われるのだ。如何に優れた金融・サーヴィスないし加工製品業が発達していたとしても、食糧や燃料、鉱産資源等を欠けば、人類は生存それ自体の危険に直面することになる。つまり、産業の次元と付加価値の多寡のみを富の分配の基準とすべきではなく、それぞれが果たす役割という観点から分配の仕方を考えるべきであろう。現在の産業構造においては、低次の産業に従事する限り、享受できる富の量には限界があり、他方で、高次の産業に従事する者は、場合にもよるが天井知らずの富を得られる。

 しかし、そうした競争勝者の「生存」を支えているのは言うまでもなく低次産業の従事者なのである。したがって、産業の次元に応じて富の分配率が決定する現在の構造に対して、人間社会の維持への不可欠性の程度という尺度を付加して、分配構造を見直し、実質的平等、ないしは富の公正な分配を考えることを提案したい。

 従事する産業の次元次第で、追求できる幸福の程度が固定的に制限されるのは不公正であるし、何より、何らかの身体的・精神的・知的障害等、何らかの消極的な理由によって満足な就労が妨げられる者は十分な富の配分が受けられず、幸福追求も自己実現もままならないという重篤な不平等を生じる。如何なる態様であろうと共、人として存在する以上、自律的に自己実現を為し、幸福を追求する権利を有している。確かに、この前提それ自体がある種の犠牲であることは承知しているが、その正しさは、近現代における史実により経験的に実証されつつある。分配を為し得る富がそもそも存在しないというのであれば格別、今この瞬間も莫大な富が創出されている。誰一人として孤独に生存することはできない以上、創出した付加価値の多寡とは異なる観点を富の分配の基準に導入し、実質的な平等を実現すべきである。

 労働はあくまでも労働に過ぎず、人生の構成要素のひとつに過ぎない。真に追求すべきは個人の幸福であるはずであるのに、その追求の射程が、従事する労働の次元のみに全て支配される等ということはあってはなならない。如何なる業種に従事しようとも、不運にも労働に従事できない状況に置かれているにしても、自律的に幸福を追求する権利は誰一人として奪われはしないのである。

 では、如何にして、富の分配の実質的平等を実現すればよいか。これについては更なる累進課税の徹底と、逆進性のある税の軽減であろう。政府は、「増税するなら日本を出る」という経済界の圧力に易々と屈し、彼らに有利な税政策を展開しようと画策するが、「出ていく」というものを無理に引き止める必要はない。日本程に人的資源をはじめ各種の社会インフラが充実している国家はそうそう存在するものでもない。よって、仮に税制に不満をもつ大企業が国を離れても、日本に整備された既成の利便性を活かそうとして新規参入してくる企業は必ず出現するであろう。競争原理とはそういうものである。

 よって政府は、委縮することなく格差是正の為に必要不可欠と考えられる瀬策施策を速やかに実行すればよい。このまま格差を拡大し、働けど働けど幸福追求の叶わない国家であることの方が余程問題として深刻である。労働も含めて、社会のあらゆる要素は、人の幸福の為に存在しているのであり、決してそのことを失念すべきでない。

 なお、ひとつのアイデアとして、各種経済活動が創出した付加価値を一度全て政府にすべて預け、創出した付加価値と社会全体の福祉への貢献度に案分比例して分配する仕組みが考えられよう。

 いずれにせよ、社会構造にしろ、国家の活動にしろ、全ては国民の自由を保障し、平等を実現するためにな為されるべきである。人は生きるために働くのであり、働くために生きるわけではない。そのことを決して努々忘れてはならないのである。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。