職種と賃金格差に関する試考

覚え書き
03 /11 2019
 「職業に貴賤はない」と言われながらも、実際には職種によって得られる賃金に相応の開きがあることは周知の事実である。故に、人は少しでも条件の良い職を探し、あるいは安定した身分と賃金が保障される公務員のような仕事に就こうとする。

 しかし、職種による賃金格差が貧富を決定づける現在の経済構造は果たして本当に手放しに是認できるものなのであろうか。いわゆる勝ち組的職種に就職できれば富を得、反対に負け組的職種に就くならば貧困に陥るしかないという事態ははさも当然の切離であるかのように認識されているが、大いなる疑問を禁じ得ない。加えて、負け組から勝ち組に転身できる可能性が皆無に近いこともまた切なさを誘う事実であろう。そもそも、いかなる職業であれ、その職業が社会に存在するということは、その職業ないし職種がその社会全体の機能維持のために必要的であるからである。なぜなら、不必要な職種は競争原理によって淘汰されその存在を失うはずであるからである。従って、経済的分配、すなわち職業労働者に対する報酬は、その職種が生む経済的効果の多寡とは切離して、別の観点から支払われるべきであるように思う。
 例えば、現在の日本では農林水産業等第一次産業に従事する場合、よほどの幸運に恵まれるか、稀有なアイデアを実現できない限り、典型的に事業をこなすことのみによっていわゆる大金持ちとなることはほとんど不可能に近い。ごく最近では、第二次産業の場合でさえ、その雇用形態の如何(正社員か派遣か)によって生涯賃金に大きな格差を生じることが知られるようになった。このように、従事する職種ないしは従事の形態によって一定水準以上の経済力を獲得する機会を構造的に奪われるというのは、社会構造的の(しかも、優れて人為的かつ恣意的な)不平等であり、現代社会の欠陥であるように思える。特に、第一次産業は、生産によって生じる付加価値がの点で、他の産業によりも比較的小さくなりがちな構造を持つが、人間の社会的営みにおいて根源的に必要不可欠な要素を提供する産業であり、その意味では死活的に重要な職種であるということができる。これに対して、生み出す付加価値が大きくないという事由に基づいて、一定以下の水準の収入に甘んじながら仕事を続けざるを得ず、裕福になる機会をほぼ絶対的に奪われるというのは極めて首肯し難いことである。

 そもそも、労働とは、人間にとって最もかけがえのない「与えられた寿命の一部」を売り渡すことであり、賃金とはそれに対する対価である。故に、いかなる業種であれ、労働に従事している以上、その生み出す経済的利潤や付加価値の多寡の如何とは切離して、生存と労働の継続が可能なだけの対価が支払われるべきであると考える。朝から晩まで労働基準法の定める許容労働時間をはるかに超えてパート・アルバイトをこなし、あるいは夜勤のある介護労働に従事しながら、一般的な家族を形成することすら困難な程度の低賃金しか与えられない状況は早急に改善されるべきである。市場における競争原理とは、労働者のみに課せられるものではなく、企業経営者にもまた等しく影響を及ぼすものでなければならない。自社で業務に従事する従業員に、労働基準法の定めに従う待遇を提供できない企業は、まさに競争力を欠いた不良企業であり、まして補助金にぶら下がることでかろうじて生き延びているような企業はもはや生ける屍であって、競争原理に従って速やかに事業を清算し、不動産や生産手段、そして人的資源を市場に還流して、市場経済の新陳代謝促進に貢献すべきである。

 市場経済の厳しさが語られることは多いが、それは労働者にとっての厳しさについてが大部分であり、会社経営者に対してその厳しさが語られる機会が極めて稀であることを率直に憂いている。資本家(会社)と労働者は支配者と被支配者の関係ではない。確かに、指揮命令という点における立場の違いはある。しかしそれはあくまでも立場上の差異であって、地位の区別ではないのだ。このことを、経営者も労働者もよく認識しておく必要があるように思う。少なくとも建前としては、資本家と労働者は、立場こそ違えど地位は同等であり、相互の協働によって仕事をこなして利潤を生み、ひいては社会全体の運営と成長に貢献するのが望ましい姿である。特にわが国では、労働者の側にその認識が欠落が顕著である。自己犠牲的に会社に尽くすことが美徳であるように考えたり、あるいは不当低賃金でも職がないよりはましと口を閉ざして甘受している者があまりにも多いように感じられることは残念の極みであり、更に悪いことには、経営陣もまたそれは日本的な労働のあり方であり、現代においてさえ、ある意味当然のように思ってそれを強いているきらいがあり、危機的ですらある。要するに、資本家と労働者の間に極めて望ましからざる暗黙の共通認識が出来上がっており、労働の場面において人権を無意識に抑圧し、またそれを受容する旧弊があるというわけだ。

 繰り返しになるが、経営者(資本家・会社)と労働者は、立場は違えど、地位は同等である。経営者にいかに資金力があり、優れた生産設備を所有しているとしても、それらを用いて製品やサービスを生産・提供して利潤を生みだす労働者が存在しなければ、あらゆる生産資源をを無駄に腐敗させるだけだということを知るべきであろう。労働力を提供する労働者こそが、資本家の用意した生産と利潤発生の契機を実現しているのであり、結局のところ労働者無しでは利潤の追求は不可能に近いのである。

 日に8時間、週40時間以上労働者を働かせて、当該労働者が(結婚をし、子どもを2~3人持つような)一般的な家庭を築くことができるだけの賃金を支払うことが難しいのであれば、それはその企業に市場における価値が十分にないということであり、速やかに事業を清算して廃業し、物的および人的資源を市場に還流すべきである。間違っても、補助金にすがって彷徨う支社のように市場の残滓となって、労働者を飼い殺しにすべきではない。人は有限で貴重な資源であると同時に、労働力とは、その人のかけがえのない人生の一部を労働時間という形で提供しているのだということを努々忘れてはならないのである。

 わが国のような先進国は、幸いにして絶対的に資力がないわけではない。中国に抜かれたとはいえ、世界第3位のGDPを誇り、国民ひとり当たりのGDPで見れば中国など足元にも及ばないほど高い数値を誇る。端的に、現に金はあるのだ。にもかかわらず、多くの国民が豊かさを実感できないのはなぜか?その理由は、富の再分配の構造に致命的な欠陥があるからだというよりほかあるまい。自然発生的なトリクルダウンなどというものは端的に幻想であり、一度手にした利益を企業が自主的に社会的再生産(労働者の生活の質の向上や子どもたち当たらしい世代の育成等)のために内部留保を放出するはずがない。わが家は豊だから、余剰分を隣人に分け与えようなどと通常考えないのと本質的には同じである。まして、利益調整のための調整弁として外国人研修制度を利用するなどもってのほかである。政府は外国人の受け入れに際し、同一労働については日本人と同等の水準を確保するというが、それは眉唾である。私は、以前入管や建設業の許可申請に関する仕事に専門職として従事していたことがある(守秘義務があるので詳細は語れない)が、慢性的な人手不足に悩む建設業の経営者等からは、「柔軟な雇用調整のために、外国人の受け入れ制度をうまく利用する方法はないものか」といった趣旨の質問を幾度となく受けたものである。政府がなんと言い繕おうとも、結局外国人の受け入れを考える経営者は、制度趣旨などは度外視で、要するに彼らを低廉で柔軟に雇用調整できる便利な労働力としてしか見ていないのである。外国人に限らず、日雇いや派遣労働に従事する日本人に対しても同じ目論見を持っていることは間違いなかろう。

 1日8時間、週40時間を超える労働は(36協定がある場合を別として)原則禁止であることを、経営者も、労働者もどちらももう一度思い出すべきである。満足な労働組合の組織されていない企業では36協定すらないまま、うやむやにサービス残業や持ち帰り仕事が常態化している。そこでは、働く人間の人権は無視され、人間らしく仕事と生活を両立するという理想は無残に蹂躙されている。

 人は、生きるために働かなければならない。聖書曰く、「苦しんで糧を得、そして土に帰る」のである。これは、我々人が動物的側面を有している以上、俄かにはいかんともし難い現実である。しかし、尊厳なき労働は紛れもなく悪であり、次世代を育成できない(結婚して子供を持てない)程度の賃金でしか労働できない社会に未来はない。しかも、幾星霜を経た現代(近代)社会にあっては、国家や社会に尽くすために人は労働するのでなく、人間らしく生きるために労働し、労働を通して得られる資力の一部を税金として用いることで、円滑な社会が形成されるよう種々の調整をするために国家が存在しているのだということを今一度心に留めおかねばならないだろう。労働は、生存の手段であることは無論だが、人生を豊かにするための手段でもまたある。従って、職種によって貧富が固定化する社会構造は根本から見直すべきである。

 思うに、有限の人生という時間を労働に投下したことに対して支払われる報酬と、当該労働によって生み出された付加価値を切離し、前者に対しては、まさに健康で文化的な最低限度の生活が確実に送れるだけの基礎的な賃金を社会全体で分配して、労働者の生活と労働力の再生産(つまり子育てをすること)を確保し、その後余剰分を生み出した付加価値の多寡によって応分に分配するような、二重の賃金支払い方法を模索すべきであると考える。

 これは一見、幻想のように思えるが、わが国のGDPをもってすれば、余剰をもって不足を充足して賃金を平滑化した上で、更に残った分を成果によって分配することは可能なはずである。例えば、標準的な人が一生に要する費用に人口をかけて標準的生活に必要な額を算出し、その値をGDPから引いて得られた余剰分を各人が生み出した付加価値の多寡に応じて案分比例で分配すれば、貧困を回避しながら、成果を上げた者には褒章が与えられるという仕組みが構築できると考える。

 これはあくまでも試考にすぎず、今はまだ幻想の域を出ない世迷言であるが、すべての人が人間らしい尊厳をもって働くことの出来る世界、労働に従事している限り明日の心配をしないでよい社会、働く意思がある限り、標準的生活の可能な職を得られる世の中、そういったものを実現したいと思わずにいられない。もし、拙稿を読んで、経済学や数学に強い方がいらしたならばこれに勝る幸福はない。

 西欧では、労働は原罪に対して神が人に与えた罰だという。しかし、だからといって、人間性を失ってまで労働に苛まれるのはやはり人間のありようとして不自然であると思う。労働が、ただ糧をえるための手段としてだけではなく、多くの人々にとって生きるための喜びとなることを切に願う。そして政府には、まるで国際競争のための道具のように人扱うことをやめるよう強く訴えたい。

 私も、小なりとはいえ及ばずながら、労働が豊かな生活の原動力となるために声を上げていきたいと思う。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。