人生の予測不能性と経験

所感雑感
08 /10 2019
 善行が必ず利得と幸運を齎すとは限らず、悪行が必ずしも懲罰と不運を被るとは限らない。即ち、とある行為については、それが善行であるか悪行であるかの如何を問わず、その行為が齎す結果は我々人間にとっては完全に予測不能なのである。しかし、人間は経験から学ぶという知恵を持つ。
 もっとも、常に経験を通して善き事を学ぶという保障はなく、また仮に経験から善き事を何だとしても、常時それを念頭に置いて適切に活用し得るわけではない。従って、こうした性質を持つ人間という存在がより善くあるためには、経験し学んだことを常に善く活かすべく努力する姿勢が要請されるのである。よく経験し、善く学び、その結果を善い方向に活かそうという一連の運動を絶え間なく続け、常に善くあろうと己を統御する自律的な意思ないくしては、自由の下で善き選択を為すことはできない。

 善き選択とは、こうした連環の結果であり、絶え間なく自由意思をより善い方向に向かわせようとする姿勢があって初めて善き選択が自律的に成立するのであり、それは自己実現の完成へと繋がっていく。換言すれば、自由意思の下で、経験を経て知り得た事柄を善き事の為に活用しようとする自律的意思こそがより善い自己実現にとって不可欠の要素となるのである。私はこの原理を、あらゆる可能性を持つ無制約な自由を自律的に善き方向に引き絞るという意味で、カントの格率に倣い、自由率と呼ぶ。

 そして法には社会の調整機能があり、人々に対して何が「善い行いであるか」に係る判断の基準になるものである。ならば、経済活動の結果に関する不確実性(要するに競争に参加したとして、その競争に勝利するか敗北するか)についても法が当為を示し、調整と解決を図るための機能を発揮すべきではないだろうか。すなわち、経済分野こそ憲法を含めてあらゆる法は積極的に父権的介入を敢行すべきであり、その意味で二重の基準論は正しい。

 他方、市場経済の自立性と自由な活動を偏重して各種規制を緩和し、職業選択の幅を社会階級的垂直的にも、各階級における水平的にもいたずらに広げてみることは、人々に多くの選択肢を提供することと引き換えに、将来の結果に関する見通しを不明瞭にし、成功・失敗の色を双方ともに濃くする恐れがあるという意味に於いて、平等の実現を困難にする側面を有していることに留意しなければならないであろう。

 人が本当に自由であるといえるためには、自由を善い方向へと向かわせる意思を自己の内面において涵養することが不可欠であり、そしてそれを担保するためには、経済的な競争の中における結果についてその成否をある程度事前に見通すことのできる社会構造の構築が必要である。無制約な競争と無節操な富の再分配は社会構造全体に軋轢を生み、自由の名のもとにかえって不自由を強制することとなり得る。

 特に経済活動においては、無秩序な競争は文字通り万民の万民に対する闘争状態を生み、弱肉強食の自然状態へと陥る蓋然性が自ずから高まる。故に、法は、無秩序を排し、人々がより善くあることの出来る社会を構築すべき機能を果たさなければならない。ここ数年、経済活動に対する法の規制緩和を重んじる傾向が続いているが、それが現在の極端なる経済的格差を生み出した一因であることは否定しえない。規制緩和はすべての人々に対してそれに与する機会を平等に提供するのであるから、成否は選択した当該個人の自己責任に還元されるが、機会の平等(形式的平等)の深化が実質的には不平等を拡大するということは既に近代の失敗が史実的に実証している。

 従って、実質的平等の実現の為に法が父権的介入を為すことはむしろ積極的に為されるべきである。機会や形式、尊厳や権利においてのみ平等が保障されても、実質的に平等が実現しなければ空虚である。現代という時代が行き詰まりを見せる今、より積極的に実質的平等を法的に実現することこそ肝要であると観念する。その為にも自由率の原理は寄与するであろうと観念する。

 しかし何故に形式的平等では足りず、実質的平等の実現がなされる必要があるのか。言い換えれば、競争を是認する社会構造において、なぜ経済的格差は実質的に是正されるべきであるのか。

 我々は確かに動物の一種に違いなく、その意味では競争原理の中で淘汰される宿命を負う存在であることは間違いない。しかし、我々は本性的に動物と異なる存在であることを自覚しなければならない(人類と他の動物との差異-社会的自殺と私的自殺-、拙著を参照)。すなわち実力の強弱のみで優劣を決し、勝者総取りによって敗者を理不尽に虐げるようなことはあってはならぬことである。

 人間らしさとは自律的自由を平等に有していることでり、その平等は権利と尊厳においてのみならず、実質においてこそ平等でなければなならない。右腕のない者にも人としての尊厳はあり、右手を上げる権利は理念的になお存在するが、しかし欠缺した右手を何らかの方法により実質的に補充しなければ、その権利は画餅に過ぎず、依然不平等かつ不利な立場のまま取り残されるのである。しかしそのような者にさえ、無制約の競争は牙をむく。

 持てる者は持たざる者に与えて社会全体の水準を平滑化し、自分がされて粉マシくないことは他人に対してもを為さないという原則を徹底するとき、人は真に自由と平等を享受できるのである。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。