公共財の配分と富の再分配による格差是正の可能性に係る考察

憲法概論
08 /07 2019
 人間が享楽に身を任せて生きることそれ自体は悪いことではない。あらゆる個人には自由があり(経済的な)能力の許す限りにおいて思いのままに人生を謳歌することが許される。しかし、他人の自由を侵害し、或いは社会的な安定を損なうような行動は慎まなければならない。すなわち、自由があるからといって何をしてもよいわけではなく、他人の自由を自己の自由と同様に尊重し、社会的な秩序を乱さぬよう自律的に自由を統御する義務を負っていると言うべきである。
 自由と放縦は異なる。そして放縦と享楽が結合し、そこに競争の構造が持ち込まれるとき、勝者は全てを得、敗者はすべてを失うという看過し難い不平等が生じる。人は、ひとたび生を得たからには、自由に自分らしくある自然的権利を有しているのであり、自律的に自己の幸福追求を統御する権利は、競争原理をもってしても奪うことができないと観念すべきである。享楽とは、楽しみや喜びのことであり、知恵ある人が人生をより善く生きるためには不可欠の要素であって、人として生を受けた者は皆すべて自分なりの享楽を味わう資格を有している。

 従って、競争の勝者と敗者の間の富(享楽の源泉)の分配が、全か無かというような極端なものとなってはならない。敗者を含めた全ての人間存在が有機的に連携・協働した結果創出されるのが富なのであるから、功績に応じた差異は認めるにしても、可能な限り実質的平等に富は分配されなければならない。

 富をより多く手にする者は、それだけ一層多くの社会資源(人的にも物的にも)を消費するが、手にする富の少ない者が消費する社会資源は小さい。社会資源が有限であり、かつそれに対する接近の機会が本質的に平等なのであるとするならば、その消費量の差異は富の分配の仕方によって平滑化されるべきである。

 すなわち、多くの社会資源を消費する者はその対価として富の分配を差し引かれ、他方社会資源の消費量が少ない者には富の分配が増し加えられ、もって資源の配分と富の分配における平等を実現しようというのである。勝者がより充実した享楽を得、敗者のそれが少ないのは、競争それ自体を是認する限り、やむを得ない自然的な帰結である。しかし、そうであるからといって強者の為すがままに敗者は屈従するより外ないというのは知恵ある人間の仕業とは到底言えない。

 資源の配分と富の分配の平滑化による実質的平等の実現こそ、次の時代への扉を開く鍵となるであろう。

 社会的資源(公共財)は貧富の如何を問わず、構成員全てが等しく共有するものであるから、準備された社会的資源も同様貧富の別なく平等に平等に配分されるべきである。しかし、人(自然人、法人ともに)の性向や能力には個体差があり、機会的・形式的に社会的資源を平等に配分しても有意義な結果は得られない。

 そのような配分をしてしまえば、社会的資源の利用に長けた者は資源不足に陥り、利用の仕方に劣る者は資源を持て余してしまう。従って、社会的資源の配分においては、人の得手・不得手に応じて自由かつ自律的に用いられるべきである。しかし他方で、富の分配に関する平等の要請がある。そして、こちらは、人の個性の如何に関わらず実質的に平等に分配されることが求められる。

 では、個性を考慮した資源の配分と個性に関わらない富の分配との間の折り合いをどのように付けるのが妥当なのであろうか?

 思うに、成功をなし得て富む者は、本質的には社会的構成員皆のものであるはずの各種社会的資源を過剰に消費する一方、競争に負け困窮する者は大きな消費を行わない。そうであるならば、社会的資源の過剰利用による制裁として勝者から一定量の富を徴収し、反対に困窮の故に資源をほとんど使用しない者に対しては、資源節約の褒賞としてより大きな富を分配する方法を考えるべきであるように思う。この方法を用いるならば、勝者から徴収した富の一部を敗者に分配することに合理性を付与することができよう。あわせて資源の配分と富の分配との平滑化が可能となり、実質的平等の実現は現実身を帯びてくるように観念する。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。