貧困と教育の貧困の負の連鎖

所感雑感
08 /06 2019
 貧困は教育の貧困に繋がり、教育の貧困は次の貧困へと繋がる。このように貧困には連鎖、或いは遺伝する構造上の仕組みが備わっており、その鎖を断ち切るためには父権的介入さえ辞すべきではないのである。
 貧困から脱するためには教育が不可欠である。特に、現代のように高度な職能が要求される時代においては、高等教育の重要性は一層増す。教育を介してよく躾けられ、高度な能力の獲得に成功した者は、より善い人生を勝ち取り得る可能性を得られるが、他方、教育が不十分で、能力(職能)の獲得に失敗した者が人生における競争にあって勝利を得ることは相当に困難である。

 しかしながら、十分な教育を受けるためには、多額の資本投下を要する。そのため、教育の成否は事実上、生育環境における経済状況に左右される実態がある。即ち、経済状況に恵まれた者はより善い教育を受けられる機会にも恵まれ、そうでない者は、教育の機会をも失ってしまう。しかも、経済状況は、出生地とその場所の治安や政治的、社会的、文化的成熟度にに大きく左右されるため、「出生地とその状況」という本人の意思とは全く無関係の事由によって人生を左右し得る教育という重要な要素が影響を被るわけであり、これは如何に考えても明らかに不公正である。

 形式的な機会の平等にとどまらず、実質的平等を実現するためには、教育の機会が質、量ともに平等に賦与されることが不可欠である。それを確保する為にも、経済的能力に応じてではなく、個人の固有の能力に応じて必要かつ本人が望む教育が受けられ、自己の可能性と幸福を追求するに足りるだけの実質的な公正が社会的に確保される必要がある。その為にも、やはり父権的かつ強制的にでも富の再分配が進められるべきと思料する。

 実質的に平等ないし公正な教育機会が与えられた状況の下で、どの程度努力し、どの程度の職能を身に付けるかというのは、当に本人の意思次第であるから、この場合に限っては、善き職能の有無について自己責任であるということができる。しかし、そもそも公正に教育機会が賦与されていない状況下にあって、職能の有無につき自己責任とされるのは過酷である。

 誰しも、能力に応じて自由に幸福を追求する権利を有しているが、その「能力」が専ら「経済的能力」を意味し、必ずしも個人の固有の努力や能力に直結していないことにこそ問題の核心はある。優れた資質を有した人材が、経済的理由により教育機会を奪われ、十分な自己実現を果たせないままに人生を終えることは社会全体にとっても大きな損失である。

 従って、繰り返しになるが、父権的な強制の手段を用いてでも、教育機会は公正に賦与されなければならない。そもそも、近現代社会、特に現代社会における国家権力の最大の役割は、個人の基本的人権を尊重し、個々の可能性が十分に発揮できるよう、政治・経済・社会のあらゆる面において調整機能を果たすことにある。なかでもとりわけ教育機会の公正な賦与という観点について国家権力はもっと敏感であるべきである。

 近代(日本でいえば明治から大正、昭和初期にかけて)でさえ、教育の重要性は十分に認識されていた。それが、次代の進んだ現代においてある種の欠缺を抱えていることは嘆かわしいというより外に言葉が見当たらない。教育は国家の最も基本的な礎であり、国家権力によって担保されるべき事柄である。決して、経済的能力の有無が、教育機会の有無を左右している現状を放置すべきではない。かような状況が速やかに改善されるよう、我等国民は民主的な意思決定過程を経て訴えていく必要があると思料する。  貧困と教育の貧困の連鎖を切断することは、特に現代の我が国においては喫緊の政治課題である。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。