近代の失敗と価値相対主義

覚え書き
08 /05 2019
 人間存在を極端なまでに普遍化し、個性や個人の特殊性を捨象して、抽象的客観的な機会の平等を目指すあまり、かえって不合理な不平等を拡大してしまったことが近代の失敗であるとするならば、その反省から個人の特殊性や固有の特質を尊重しすぎるあまりに、何が正しく、何が不正であるのかの基準が徹底的に相対化され、公共(社会)における善悪好嫌の基準が判然としなくなってしまうという価値相対主義の檻に囚われてしまったことが現代という時代の抱える病理であるといってよかろう。
 しかしながら、価値相対主義それ自体が誤りというわけではない。この概念によって、我々は仮に非常に個性的であり、特異であったとしてもなお、社会に受容され、他人と違っていてもそのありのままの姿で個人として尊重されるという、多元的な価値観の相互理解と受容ということが可能となったからである。その意味では、価値相対主義は、人種、国境、文化を超えて、人々を世界人類として緩やかに統合するための縁(よすが)となり得る可能性を秘めていた。このことは、価値相対主義の正の半面であるということができるであろう。

 価値相対主義はグローバリズムと結合して世界中に拡散し、主権国家における国民性の相違をも超えて人々を連帯ならしめ得る潜在性を垣間見せた。しかし、それが行き過ぎた結果、あらゆる価値は相対化され、公共の場(社会)における個人の選択として、いったい何が正しく、何が不正であるのか、その基準を不明瞭にしてしまい、全ての判断は個人の善悪好嫌の価値観に委ねられるという弊害を生じたことは価値相対主義の負の側面である。

 では、公共(社会)においてある程度普遍的に通用するある種絶対的な基準というものは存在するのであろうか。私はそれはあると考える。

 例えば、公的扶助や年金保険等を受給についていえば、その為の原資を負担することは損であるが、他人が自己に対してそれらを提供してくれるのは善事である。このようなとき、公的扶助や年金受給といった事柄はそれを受ける者にとっての主観的な絶対善となる。

 また、欺罔、略奪、仇敵への打撃等についていえば、それらを自己が他人に対して行い、それを介して利益を得るのは得策であるが、他人が自己に対してそれらの行為を行うことは悪である。このとき、欺罔、略奪等はそれを受ける者にとっての主観的な絶対悪となる。

 更に、第三者にとってみれば、公的扶助や年金保険を受給できることはやはり主観的な絶対善であり、欺罔、略奪等の行為を受けることはやはり主観的な絶対悪ということになる。そして、ある社会において、誰もが主観的な絶対善を享受し、絶対悪が排除されるとき、当該絶対善と絶対悪は普遍的に通用するのであるから、社会における絶対善と絶対悪は一定の範囲で必ず成立するのである。

 このように、社会における絶対善と絶対悪は一定の範囲で必ず存在するのであり、すべての善悪好嫌の価値観を相対化することは正しくないということがわかる。即ち、価値相対主義は克服されるべき概念であることが理解できる。

 個人的な価値観を相対的に尊重することはもちろん重要であるし、それは自由を広く確保するために必ず必要なことであるが、それにはいわば上限と下限が設定されるべきであり、その上限と下限に該当するのが普遍的な絶対善と絶対悪である。即ち我々が自由を行使しようと思うときには、常に、その絶対善と絶対悪の狭間で行使すべきであり、決して無制約に自由を行使してはならないという事が明らかとなるのである。

 事程左様に、社会における絶対善と絶対悪は厳然と存在し、全ての価値観が相対化されるべきでない。従って、何が絶対善であり、何が絶対悪であるかを、人生という舞台で生活を営む中で、個人の内に涵養することこそが重要であり、それが個人としての仕上がりを確かなものとするのであって、それが広く共有されるとき、社会においてもまた普遍的な正の価値観が確立するものと思料する次第である。

 価値相対主義と社会的な普遍的かつ絶対的価値観とを並立させる(止揚させる)ことこそが新しい時代の扉を開く鍵であるように考えるのだがはたしてそれは間違いであろうか?
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。