個人の自由と公共の福祉の両立に関する考察

憲法概論
08 /04 2019
 個人の自由と公共の福祉。そのいずれを優先させるべきか、これは難問である。市場原理の支配する純然たる競争社会においては、競争力に劣る個人(精神・知的・身体障害等を負う者や、保護者の保護下にない未成熟子)は、極めて困難な立場に追い込まれ、強者からの欺罔や侵奪の餌食となって、自己実現を阻まれてしまう。しかし、いかような条件の下に生を受けようとも、人間である以上、その人生を全うし、持てる限りの可能性の翼を羽ばたかせて自律的に自己実現を成し遂げる権利を有している。何人たりとも、彼らから他律的に自己実現の自由とその可能性を奪うことはできないのである。
 しかし、他方で、競争を肯定し、勝者が富を得、敗者は屈従すべきことが競争社会においては基礎づけられている以上、競争力を欠く彼らが勝者の側に立つことは相当に困難である。従って、まずは、勝者に富を集中し、敗者に屈従を強いる社会構造を転換しなければならない。富の分配方法が変わらない限り、よほどの幸運に恵まれない限りは、彼らが勝者として自己実現することはほぼ不可能である。

 「彼ららしくいきられれば」、「彼らの個性を尊重して」、「多様な生の在り方が尊重されるべきだ」等と美辞麗句を並べることは容易い。しかし、結局のところ、競争力の欠缺が「実質的に」充足されない限り、彼らの自己実現は成し得ない。なぜなら、競争はより優れたものを生み、それは価値として把捉され、そして富として蓄積されるのであって、つまるところ富の源泉は競争であるから、勝者がより多くを得、敗者が屈従を強いられるのは、ごく当然の帰結だからである。

 しかし、人は自己がどのような状態で生を得、如何なる競争力を備えて生まれいずるかを生前に予め選択することは絶対にできない。所与のものを駆使して幸福を追求するしかないというのが自然の在り様である。そしてこの自然こそ、将来の不確実性という名の自然であり、天然の自然、権力という名の自然と同様に(これらふたつの自然は既に相当程度克服されてはきたが)超克されるべき第三の自然なのであり、その超克がかなったときこそ、人類は現代の次の段階へと駒を進めることができるであろう。

 競争それ自体は悪ではない。しかし、競争力に欠けることもまた悪ではない。経済的競争における勝敗に拘泥されない富の再分配構造の構築、これこそが次代への扉を開くかぎとなるであろう。その鍵は果たしてどこにあるのか、我々はその所在を探し求めなければならぬのである。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。