自由と平等に関する試考

覚え書き
03 /07 2019
 中世から近代への変遷を経て現代に生きる我々は、いまや自らの人生における自律的な自由と権利を有する。しかし、今なお、その選択から思うままの結果を得る自由を有してはいない。選択の結果における自由を有しない我々に、本性的に選択の自由があると言えるのだろうか?

 我々の生とは、それは第一に与えられた生、すなわち人生という有限の時間を全うすることである。そして、その間に自己実現をなし幸福追求をなすことがその目的であろう。今、我々には自律的に自由を追求する権利を既に手にしている。しかし、幸福を追求する機会を得て自己実現を必ずや成し遂げられる保証はどこにもない。すなわち、現代という時代を生きる我々は、観念上、その尊厳と権利において自由ではあっても幸福追求と自己実現を確実に為す自由はないのである。

 「尊厳と権利において自由である」ということは、擬制的で形式的な観念であって、なにかしらの実質的な結果を保障するものではない。例えば、身体的な不自由があったとしても、現代の社会においては、その者の人権は尊重され、当該人は人間としての尊厳と権利において自由であるとされる。しかし、例えば、右手を欠損している者に、「あなたは、障害の有無にかかわらず尊厳と権利において完全に平等に扱われる存在なのだから、尊厳をもってその右手を自由に用いる権利がある」と言ってみたところで、何らの助力なくそれを実現することはできないのだ。つまり、自律的な自由を平等に有しているという観念は、当該自由の帰結として生じるべき結果についても実質的な平等が実現するということと当然には直結しないのである。

 従って、我々は、平等を形式的で観念的な概念と把捉して多様な個性をもつ人々を擬制的にノーマライズすべきでない。それはかえって平等を隠れ蓑に、不可能を自己責任と連結して実質的には不平等と不自由を強いる結果すら齎すことにすらなるであろう。能力的劣後による不可能は自己責任ではない。むしろそれは尊重されるべき多様な個性を構築する要素の一部でなのであるから、当該不足ないし欠缺は父権的に充足されるべきであって、その父権的充足による過不足の調整を経て実施的に平等を実現すべきことこそが人間存在が形成する社会の目的として設定されなければならない事柄であると考える。

 また、我々は将来を予測することができない。将来、すなわち選択の結果を事前に察知することについては、決定的に不自由かつ無力である。そして、能力や身体に欠缺がある場合には、その不確実性や不自由さは一層大きくなる。果たして、我々は将来の不確実性の檻を脱し、自由意思に基づく選択の自由のみならず、その結果の不確実性からの自由をも獲得することはできないものであろうか。この、将来の不確実性の檻からの自由こそ、現代の次に来たるべき新しい世界において、我々が勝ち取るべき新しい自由であるように思われる。

 かつて、王権神授説に依拠して絶対王政が全盛を極めた時代、力なき市民という名の人々が絶対君主を打ち破って主権を獲得するなどまさに幻想であった。しかし、産業革命を契機とする経済力獲得を梃子にして力を獲得した我々人類は市民革命を成し遂げて、近・現代にいたる道を開拓した。古代において、宗教的不合理と真皮による支配を、科学と合理的理論の発見によって克服したこともまた同様である。

 こうした過去の人類の歴史的歩みに鑑みれば、科学技術の飛躍的発展が続く今、将来の不確実性から解放され、自律的選択の成否に関わらず一定の平等を遍く実現するという事柄は決して単なる夢想ではないように思える。結果の平等の実現は、要するに経済活動の全体から生じる消費財と利潤の適切に分配の問題に終始するからだ。余剰をもって不足を調整するならば、均衡と調整は可能なはずである。そもそも、累進課税制や各種の金融政策及び財政政策は、そのために用意された一種のビルトインスタビライザーであったのではないか。

 我々には自律的な自由があり、自らの意思によって人生を決定する権利を有している。無論、その自律的選択の結果に対する責任を選択者が自ら追うのは自然である。しかし、自由・自立という金科玉条を拠り所に結果の不平等をすべて選択者個々人の責任に帰し、自己責任の一言で結果の不平等を正当化して済ますのであれば、我々人類が社会的結合を為す意味が失われてしまうであろう。競争の勝者の選択のみが正しく、敗者の選択は誤りであったと片づけるのは容易い。しかし、人類史のある限定的な一時点における勝者の選択が、人間存在にとって普遍的に善い選択である保障はどこにもない。事実、第二次大戦前には、列強による武力侵略によって未開人を啓蒙させることは一種の正義であると確信されていたが、今となっては、そうしたいわゆる帝国主義は人類史上屈指の痛切な汚点であり忌むべきものとして認識されるに至った。すなわち、勝者の選択が必ず善なる選択ではないのだ。この事実は、選択の時点において、その結果が歴史的に、あるいは人類にとって普遍的に善なる結果を齎すか否かを知る由が我々にはないことを端的に示していのである。

 従って、自律的な選択の自由の機会が平等に与えられるだけでは不十分であり、また、その選択の結果生じた事柄の全責任を選択者一個に負わせることは極めて不当であり、それは人間が社会的存在であることの否定に繋がるともいえよう。選択の時点で結果の帰趨を知ることができない以上、その選択が客観的に見て無防かつ故意的悪意に満ちたものでない限り、その結果は、第一義的には選択者に帰属するにしても、究極的には社会全体で共有し負担すべきであると考える。なぜならば、選択の時点でその選択の結果を定性的に見通すことが不可能だということは、本性的に自律的な選択をしているとはいえないからである。「自由意思に基づいて選択がなされた。故にその結果はその選択者の帰属する」というためには、選択の時点で結果についても完全に見通すことができてはじめて成立する論理であり、結果の見通しが不明であるときにさえその責任を選択者に負わせるのは全くもって妥当性を欠く。もっとも、無思慮や短慮、怠慢に基づく選択の結果が当人に帰すのは当然である。しかし、適切な努力の過程を経て慎重にされた選択の結果のについては、選択者の能力及び選択の為に費やされた努力と過程に応じて相応に平等な結果が実現さえるべきであると思料する。なぜならば、先に述べた身体的欠損の例のごとく、人間に天賦の人権というものが仮に本当にあるのだとすれば、それは個人の能力や可能性を超克して、あらゆる個性・特性を有する者が、他者の自律的選択を妨げない限りにおいて、人生における充足と幸福を実現できて初めて、その人権は充足されたといえるからである。

 結果の平等の実現は本当に難しい。不可能であるようにさえ思える。思うに、人生の選択において自律的自由を獲得した人類にとって、結果の平等の実現という事柄は今思いつく限りでは最後の課題であろう。私は、世界人権宣言が平等において「尊厳と権利とについて平等である。」として、平等に関し、「尊厳と権利」という留保を付したことを非常に残念に思う。その人らしく幸福と生きがいを抱きつつその生を全うできる平等こそ、実現すべき平等であると考えるからだ。「右手が無くても人間としての尊厳は守られ、右手を上げる権利は絶対的に失われるものではない」と観念的に言ってみたところで、欠損した右手を何らかの方法によって補わないかぎり、その権利は事実上存在しないのと同義である。我々が多くの犠牲を払って獲得した自由と平等という概念を、後退させてはならない。その道がたとえどれほど険しくても、我々は実質的ないし結果的平等の実現にこそ注力すべきであると考える。

 どうすればそれが実現するのか、私のごとき矮小の者にそれは直ちにはわからない。しかし、「分配と補充の再検討」と「それを為すための超国家的(な経済)管理機構の構築」ということはひとつのヒントとなり得るのではないかと考えている。競争それ自体は悪ではない。競争は必ず勝者と敗者を生むが、強者の得た褒章を社会的に還流して敗者を支え、敗者に復活の機会を与えることで更に新しい競争の循環を生み出す構造というのは、決して画餅ではないと確信する。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。