法と道徳に関する試考

所感雑感
08 /02 2019
 法と道徳の関係は、古くから議論され、今もなおその議論が尽きることのない古くて新しい問題である。
 法も道徳のそのいずれも、人がより善く生きるための道標となるべき規範であり、その意味では両者は一部重畳的に外延を接しているか、或いは通底している。しかし、両者は全く同一の概念というわけではなく、区別を要するものである。
 では、法と道徳はそのような点で異なるのか。また法は、何をもって自らを権威であると主張するのであろうか?
 よく語られるのは、道徳は人の内面に作用し、法は人の外面に作用するということである。確かに、道徳は内面的な善悪好嫌に対して機能するものであり、他方の法は、内心に留まる限りは問題とならなかった諸悪が、内心から外的行為へと遷移したとき、それに対応する機能として働くものであると言われる。しかし、この説明は法と道徳の差異を語るには不十分である。

 なぜなら、道徳が、外面的な行動の選択に際して直截的な影響を及ぼす(例えば、如何なる宗教を信仰して宗教的行為をする、あるいは信仰それ自体を否定して宗教的行為をしない等)こともあり得るし、他方、法の存在が内心に隠し持つ害的心情の表出ないし実行行為への着手を思い留まらせることもまたあるからである。

 他にも、その成り立ちの違いから両者の差異が説明されることがある。蓋し、道徳は当該人の、或いはある特定社会の慣習と結合して、明示的に誰かが創出するのでもないままに自然発生的に生ずるのに対し、(特に近現代の)法は、主権者から正統な授権を受けた権威ある立法機関、ないし時に司法機関が「これが法である」と宣言し、あるいは適用した時に、法には法たる地位が与えられる。

 しかしながら、道徳が常に自然発生的に内心において生じるわけではなく、宗教的戒律のように、ある種権威と互換的なある概念から導かれることもあり、故に、道徳が常に自然発生的で、法は常に人為的創造物であると一概にいう事はできないのである。特に近現代憲法の根拠となるような諸価値は、人為的に作成されたというよりは、人間の自然的本性に基づいて「発見」され「意識的に気付かされた」ものである。故に、法と道徳の差異をその成り立ちに求める議論も完全であるとは言えない。

 他にも、強制力に着目する考え方がある。確かに、「教会に入るときには帽子を脱ぐべきだ」とか「食事を摂る時に不快な音を立てるべきではない」といったような道徳規範は、仮にそれに違背したとしても、他人の嫌悪感を買い、所属集団における自己の立場が善いものではなくなるということはあっても、それ以上の制裁を被ることはまずないと言ってよい。

 他方、法は、特にその方が強行法規である場合には、違背者は国家権力という強力な装置によって強制的に本来あるべき姿に、文字通り「強制的に」矯正される。こうした、国家権力による強制の有無によって法と道徳を区別しようとする考え方は、確かに説得力があるが、地域社会や一定の集団(部分社会)の内部において同調圧力に抗って道徳規範に違背すれば、村八分等のような状況に事実上追い込まれ、当該社会から「強制的に」排除され、人間にとって根源的な社会的紐帯の弱化に帰結することは十分にあり得ることである。
 
 従って、何らかの有形的な権威や権力による強制の有無に基づいて法と道徳を区別する仕方もやはり完全なものではない。更に付言するならば、国際法のように「道徳的慣習そのもの」が「慣習法」としての地位を与えられている例もある。

 このように、種々の観点が主張されながらも、いずれも決め手を欠くなかにあって、法と道徳の区別を一本の木に譬える解釈が一応の説得力を備えた解決策を齎している。即ち、その木は人のより善き生という土壌に植わっており、その枝が人間の主観的内面に向かって成長する時、それは道徳を実らせ、客観的外面に向かって成長する時、それは法を実らせる(眞田芳憲『法学』)のであって、人に善き生を齎すための規範として両社は通底しているが、表出の仕方によって区別されるという着想である。この考え方は法と道徳の混同を避けながらも、その共通の存在理由を明らかにすることに成功しており、説得力のあると評することができる。 しかしながら、この考え方に敢えて意義を唱えるならば、なぜ、人により善き生を齎す根底部分が、法と道徳に分岐していくのか、という疑問が残ってしまう。

 以下は、私見であるが私は次のように考える。
 まず眞田法学同様に、法も道徳(その他宗教的戒律やエチケット等の諸規範を含む)は全て人の善き生の為に存在するという考え方から出発するが、私は、道徳と法を定立と反定立の関係で把捉せんと試みたいと考える。

 思うに、道徳とは、価値判断をする能力を与えられた我等人間存在に先験的(ア・プリオリ)に備わる素朴で原初的な善悪好嫌の直観が道徳なのであり、個人の人格ないしは特定の集団の内側から発露するもので、普遍性と固有性の両面を有している。これを定立とするならば、反定立たる方は、外部から人為的に輪郭が与えられた規範であり、単純な調整問題の解決に資する他、実力を伴う強制力を背景に我々を社会における悪事から遠ざけておく規範となるものである。

 そしてこれら定立と反定立について、人間が決して社会性を棄て去れないという事実を加味して見つめ直すとき、それらは内面にある漠然とした善悪の価値判断に係る直観に、外的に明確な枠組みが嵌められることで、万民に対して、いかなる選択がより善き選択であるかを知らしめ、選び取らせる新定立へと止揚するのである。私はこの新定立を、カントの格率に倣って自由率と名付けたい(自由率とは、本来あらゆる選択を為し得る無制約の自由を、より善い在り方に引き絞るという意味である)。この自由率の下で、人生における選択を為すならば、短慮による自傷、自害、他者への侵害といった好ましからざる選択肢(これらも本性的には我々の選択し得る可能性の中には予め含まれている)から、人々を遠ざけ、価値相対主義の下での放縦や奔放とは異なる善き選択を可能ならしめると考える。

 そして、人生においてこの自由率に基づく選択を蓄積していけば、いつか必ず、我々人類は全き善に到達し、「恐怖と欠乏」に怯えることなく、また、競争の結果の如何に関わらず、実質的に平等を実現して、その人がありのままにありのままの姿で尊重され、尊厳をもって幸福を追求し、自己実現をなし得るものと確信する。その世界には、もはや自由という名の放縦や放任はなく、平等を矮小ならしめる「尊厳と権利において」などという留保の付されたものではない、真の平等と自由が実現するものと確信する。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。