何故に社会において人間の自由は内在的に制約されるのか

憲法概論
08 /01 2019
 全き神が真理の中心に在るが如く、個人は世界の中心に位置する。そして、神が万能の業を用いて世界を創造したのと同様に、人はその認識能力を駆使して客観たる世界を認知するのである。即ち、真理が神のものであるならば、世界は主観たる個人のものなのである。
 しかしながら、人は自己の認識能力の限界を超えて世界を外側から眺めることはできず、常に自己の認識を中心とする世界の檻に囚われている。つまり、客観たる世界は主観たる個人を中心にして、その認識能力を介して了知されるのみであり、それが実在するか否かを客観的に証明することは、人間にはできないのである。従って、人は内面をより善く研鑽し、磨き上げることを通して己の世界をより善く仕上げられる可能性を有している。そして、これらの主観的世界は、その質も内容も主観によって区々であり、善きものを世界として認識する主観もあれば、悪しきものを世界と認識する主観も、その中庸たる様相を世界として認識する主観もある。つまり人々は各人の認識する世界から外に出て、客観的直截に客体を了知することはできないが、他方で、神の似姿に模写された我々には共通、ないしは通底する認識の基盤を備えているのであって、その共通基盤を介して自己と異なる世界観を持つ他者の世界を間接的に知覚することが可能となるのであり、これによって人は自己を人々のうちのひとつとして認識できるのである。故に、世界全体とは個々人の織り成す世界の外延が共通基盤を介して接触ないしは重畳、あるいは連結したものであるから、個人は決して自己をとりまく世界を離れて他者の世界に直截干渉できないが、ただ、所与の共通基盤を媒介して、他者の内面の有様を自己の内面における有様に変換して了知できるのであり、これによって異なる複数の客体の相互間における同情や共感が可能となるのである。

 ただし、我々の内心は真理それ自体ではなく真理の模写に過ぎないのであるから、常に完全な同情や共感、調和に至ることができるわけではなく、衝突や誤解、侵害を惹起することがしばしば起こり得る。従って、複数の主観が無数に併存することで形作られる社会において、各主観同士がより善く関係を取り結ぶためには、自己の内面を、経験や知性を用いてより善く仕上げると同時に、相互に善くあろうとする意思を持ち続けなければならない。なお、自己の認識能力と所与の共通基盤を超越して、世界の全く外側から客観を把捉することは不可能であるから、完全な相互理解は不可能である。

 だからこそ、我々には常に客観たる他人と上手く折り合いをつけ、共存していこうという意思が求められるのであり、故に、一個の主観はその内面においてこそ完全な自由を有するが、社会の内では、共存を目的として、各個が備える自由の一部を自律的に抑制・統御しなければならない。これこそが、人権の内在的制約の本質なのである。即ち、社会においては、内心を超えた完全な自由はあり得ない。従って、主観の内心においては完全に自由であり、あらゆる価値観を抱くことが許されるとしても、他の主観、即ち客観と対峙する時には、それらの共存の為に、各々の価値観が全く相対的であることは許されず、自ずから共存を実現するために必要な制限に服し、ある程度方向性の定まった絶対的な価値観の同調が要請されるのであり、当該同調に成功するとき、我々ははじめて平和的に共存することが叶うのである。

 価値の多様性の理解と受容それ自体は好ましいことであるし、個々人の構築する世界観が基本的には閉鎖的である以上、多様性を容認しなければ、自由な社会が成立しえないことは確かである。しかしその一方で、各主観の価値観について全く無制約に放縦を許したのでは、社会秩序は混乱を極める。故に、多様な価値観を持つ主観同士が衝突を避けて平和裏に共存を実現するためには、ある程度の自由の制約と互譲、及び一定の善き在り方に向かって方向づけられることは不可避なのである。

 かくして、現代という時代の重篤な病である価値相対主義を治癒する可能性が見出されるのである。より善い在り方へと、個人の自由の範囲を引き絞ること、すなわち自由率こそが全人類的な互譲と共存を実現する鍵になると観念する。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。