自由と民主性に関する考察

憲法概論
07 /19 2019
 個人に属する自由は内心に留まる限り絶対不可侵かつ完全に秘密であり、自己および自己の所属する国家の在り方を最終的に決定する権威ないし力を備えたものである。
 他人と(ゲゼルシャフトな関係であれ、ゲマインシャフトな関係であれ)社会的関係を取り結び、内心に関する他人からの干渉をどこまで許容するかについても自由意思による決定に委ねられる。しかし、個々人が社会的関係を取り結ぶ際に、双方が剥き身の自由を主張すれば、相互の自由は衝突し、最悪の場合傷害や殺人へと帰結することさえあり得る。従って、個々人が平穏かつ安寧に社会的関係を取り結ぶためには、内心の自由の一部を自らの意思でもってより善き方向へと統御する必要がある。ここでは、それをカントの格率に倣って自由率と名付けることにしよう。そして、その自由率に依拠して相互の自由を自律的に善き方向へと統御することによって、個々人は良好な関係を維持することが可能になるのである。
 自由率とは、約言すれば、「自分がされて好ましくないことを、他人に対しては決して為さない」という簡明な原則に収斂することができる。この自由率主義に依拠して社会的関係を取り結べば、少なくとも虐めやネグレクト、各種ハラスメント等の現代社会における負の現象を幾分かは抑制することができるようになるであろう。これを自由率による水平的互譲と呼ぶことにする。

 加えて、民主制社会においては垂直方向にも個人に属する主権(自己決定権)を委譲する必要がある。直接民主制においてはそれは必須ではないが、間接民主制の下では不可欠の要素となる。

 本来は、個々人が自らの属する国家(社会)の在り方を最終的に決定する権威ないし力(主権)を有しているが、各人が全く別個にそれを行使したのでは、特に価値観が過度に相対化している現代社会においては、主権の自由な行使によってむしろ民主制が破壊されかねない危険を孕む。従って、自由率によって自由の一部を水平的に互譲したように、主権の一部をより上位の存在に委譲して権威として作用する規範(法)を構成し、皆がそれを遵守することで国家(社会)全体の安寧を維持すべき必要が生じる。

 民主制国家において、人々が法を始めとする諸規範に従うのは、それが自己の意思とは切離されてはいるが、権力の強制力をもって服従を強いる「権威たる命令」であるからではなく、自らに属する主権の一部を民主的な意思決定過程を経て形成した立法府(議会・国会)の制定した法であり、同時に、我が国においては間接的であるとはいえ、選挙という民主的意思決定過程を経て多数者が信任した与党の代表が組織する内閣がその法を執行するからである。民主制国家においては、各国民の主権に由来しない規範や命令は法ではない。国民は(多数決によって自己にとっては不満足な結果となることは受け入れざるを得ないにしても)自らが有する主権の垂直的以上の結果定まった規範である故に、それに服従するのである。

 従って、国会(議会)や内閣の為すことは決して他人事ではない。故に、選挙の際には、その一票が自己の属する国家(社会)の在り方を決めるのだとの認識を持って慎重な選択をすべきであって、短絡で利己的な利害関係や個人的情念に基づいた主観的で非理性的な選択をなすべきではないし、放任や棄権は可能な限り回避されるべきである。

 選挙の度に投票率が軒並み下がる現状においては頑なに普通選挙に囚われる必要はなく、緩やかな制限選挙(投票意思のある者の投票を決して妨げないが、自主的に投票を忌避する者には増税などある種の制裁を課すような仕組み)の実施を試みる等して、有権者の政治的関心を回復し、国家(社会)の将来および在り方を決定すべき最終的権威は自らの手中にあるのだということを再認識させることが肝要である。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。