自由の享受と共存

憲法概論
07 /15 2019
 自由の享受と共存の難しさ、即ち個人間の自由の衝突の問題は極めて解決困難な問題ではあるが、我が国では「公共の福祉」がその一応の答えとなる。だが、果たして何をもってどこまでを公共の福祉の射程と見做すのかというと、判然としない。
 人は個人を中心に、同心円状に拡大する社会に属する。その同心円は、中心から外周に向かって、個人、家庭、地域社会、地方公共団体、主権国家、国際平面と段階的に展開していく。
 その円の半径の大きさに比例して、交際する人々の数は自ずと大きくなり、その分自由が衝突する蓋然性は高くなる。加えて、中心から外周に向かうにつれて、個々人間の関係性の密度は疎になるとともに、多様な価値観を持つ人々と邂逅する機会が増えるが、関係性が希薄になるということは相手の行為に対する許容度が低下することを意味する。例えば、自分の子ども(距離が近い者)の行為であれば許せることが、他人の子ども(距離が遠い者)の行為は許せないということがあり得るであろう。即ち、人間がより多くの人々と自由の互譲を実現するためには、「意識的に」人間であるという同胞観を共有する必要があるのである。
 個人や家庭、地域社会の慣習や宗教的教義などを、人類という同胞観に優先する限り、永久に人類の平和的共存は不可能であろう。我々は、如何なる宗教の信者であるか、またどこの主権国家の国民であるかというより前に、人間なのである。即ち、あらゆる価値観よりも人類としての同胞観を尊重するというコペルニクス的転回が今必要とされていると言える。もしこれに失敗して、人々が所属する部分社会の特定の価値観を優先して放縦に自由を濫用するならば、純化と分断が一層深化し、社会的紐帯はことごとく切断されていくであろう。しかし、人間が生理的にも社会的関係において生活すべきことが運命づけられている以上、社会的関係の結びつきを意識的に強化し拡大することは今を生きる我々の責務であると観念する。

 故に、社会において人々は自律的な自由の下で幸福を追求できると同時に他社にも同様の自由と権利があるのだということを認識しなければならない。そして、我慢、辛抱、利他、許容は美徳であり、人は可能な限りこうした善き属性を具備できるよう、経験と学習を通して人格を仕上げていかなければならないのである。しかもそれには、適正な教育が不可欠であり、それは職能や競争力強化以外の観点から為される必要がある。

 現代社会を越えて次の時代区分へ至るための扉fは、富の公正な再分配による実質的平等の実現、適正な教育を介した人間としての同胞観の涵養、そして国際秩序を実効的に統御するための民主的な世界政府の構築が不可欠である。そしてこれらの課題を解決するための鍵を見出すことこそが、22世紀に向けて歩みを進めつつある今の我々の責務であると観念する。もし、次代への扉を開く鍵を見つけることができ、実効的に統御される国際社会秩序が完成すれば、我々は将来の不確実性から逃れることすら不可能ではないであろう。

 人生における人間の選択に正解はない。なぜならある特定の判断と行為の結果を誰も事前に確知し得ないからである。しかし、だからといって放縦に自由を謳歌してよいわけではない。制約されるべき自由の領野、即ち絶対的な善悪観は必ず存在すると信じる。それを知ることが叶えば、人は価値相対主義という現代の深刻な病理から回復して立ち直ることができるであろう。

 この世にあって存在の確実なるものは「死」を置いて他にはない。そして、死は全ての消滅でありながら、しかも唯一の確かな存在である。死は、もっとも不確実な将来を我々に齎すが、我々は死を免れることはできない。そうであるからこそ、生きている間は、少なくとも死を除くあらゆる事柄について、将来の不確実性から解放されるように、知恵を絞ることが必要となるのである。

 経済的不平等をあるがままに受け入れ、競争それ自体は悪ではないという原理に基づいて、市場経済という舞台の上で闇雲に競争を介して将来の不確実性に翻弄される現在の仕組みは改められるべきであり、かつ、国際的な規模で、しかも民主的な方法においてその仕組みは構築されなければなるまい。

 夢想のように聞こえるかもしれないが、私は、上記の実現が22世紀への扉を開く鍵になると真剣に確信している。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。