法と自由意思及び社会契約

憲法概論
07 /15 2019
 「なぜ法に従うべき義務があるのか」と問われたならば、何と答えるのが適当であろうか。法、特に刑法においては国家っ権力による強力な強制力があるために―最も民事法であっても強行法規はあるが―、その違背に対する罰則を回避するために法に従うのだという回答があり得るかもしれない。しかし、思い返してみれば、少なくとも現代的社会における我々人間存在は個々人の水準において自らの人生の選択に関する相応に広範な自由を有しており、刑法に抵触するような人倫に反する行為について罰せられる場合は格別、義務教育を受けるか否かや、賃貸借や売買などの民事的な事項については、個人がどう振る舞い、どのような決断をするかは当該個人の自由に選択すればよいのであって、国家権力の定める法の介入を許すいわれはない。いわゆる経済的規制の法的強制の問題である。しかし、実際の法の運用においては、個人の広範な自由が是認されるべき民事や家事においても一定の仕方を命ずる強行法規は存在する。では、我々はなぜ、それらについても服従と遵法を強いられるのであろうか。
 この問いに答えるためには、現代国家における法の成立の仕組みと社会契約について大凡の概論を知っておく必要がある。まず、近現代市民法の原則は、私的自治であり、個々人が自らの人生に関することを、自らの自由意思に則って決定できることを前提としている。そうであるならば、私人間関係においては殺害、傷害、欺罔、強奪等の非人倫的行為にさえ、国家権力の介入は抑制的であるというべきことになるようにみえる。これらの非人倫的選択でさえ、自由の範疇にあるからである。

 しかし、ここで、なぜ私的自治が是認されるかについて改めて思いを巡らせるとき、謎は解きほぐされていく。例えば、双務契約が最も典型的な好例であり、契約当事者が相互に契約内容に拘束されるのは、個人の自由意思として「何をいくらで取引するか」を決定したという事実に由来する。即ち、近現代社会の原則は個人が自由で自律的な存在であることを相互に確認した上で、当該「自律的な自由意思を表示した」とき、当該個人はその自ら発露した意思の結果であるが故に拘束を受けるのである。端的に言えば、「自分の意思で自由に選択し、約束したのであるから、その約束には従え」ということであり、これが市民法における法的拘束という概念の精髄である。

 その上で生じる疑問は、「なぜ個々人が自由意思に基づいて為した選択」に国家権力の介入の余地があるのか、ということである。民主的な過程(要するに民主的な方法による選挙)を経て形成された近現代国家は、中世までのそれとは異なり、市民階級の意思と切離された存在ではない。投票という民主的な過程を経て議会が構成され、その議会が法(議会制定法)を制定する。そして、投票の際、我々はいずれの候補が自らの意思を代弁してくれるかを文字通り「自由」に選択・決定しているのである。即ち、議会とはいわば個々人の自由意思が収斂した結晶である。従って、議会の決定(即ち法議会制定法)には、国民が間接的に正統性を付与しているのであり、まさに自由意思から誕生したものである。

 この国家と国民(=個人)との関係がいわゆる社会契約であり、自由意思の所産である。故に、我々は法(議会制定法)の高速を受けるのである。だからこそ、いかなる法を制定しようと目論む政党を選挙で選ぶかは、その結果がそのまま投票者個人に反射してくる重要な問題であり、国民が政治的関心を失い、国の在り方に関する正しい選択を為すことを手控えるようになれば、あるいは、一時的な世論の盛衰に影響されて、長期的な視点を欠いた短絡な選択を繰り返すようになれば、間違いなく民主主義は機能不全を起こし、国民たる個人の意思と大きく乖離した民主的に正統性・正当性の両面において致命的な問題を抱えた法が我々を支配するということさえ起こり得る。

 民主主義が正常に機能し、国民の意思を適切に法に反映させるためには、自由意思に基づいて民主的法規範を維持しようとし続ける国民の、まさに「意思」が不可欠なのである。国民の意思を法に適切に反映させるために、我々には普段の努力が義務付けられていると観念すべきである。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。