価値相対主義とどう向き合うか

所感雑感
07 /12 2019
 過度に人の合理性と普遍性を重視し過ぎるあまりに、個人に属する特殊性を捨象して、機会の平等を優先した結果、かえって大きな不平等へと陥ってしまったことが近代の失敗であり病理であったのと同様、逆に個人の特殊性に注目しすぎ、その個性を尊重しすぎた結果、社会的存在として何が正しく、何が誤っているのか、あらゆる善悪好嫌の基準が相対化してしまった価値相対主義は現代の失敗であり病理であると言えよう。しかし、価値相対主義それ自体が悪なのではない。絶対的尺度によって、多様な価値観とそれに対する偏見を生み出すことなく、個性を備えた個人が、社会的に理解され受容されるよう試みることは、少数者(マイノリティ)に社会における居場所を提供し、尊厳を与えるものだからである。その意味に於いて価値相対主義は極めて有意義な思考形態であると言える。
 しかし、同時に、何を為すも為さざるも、それは全て各個人の選好の如何に委ねられ、絶対的な価値基準などはなくすべてはその具体的な個人がどう評価するかにかかるという相対的関係に収斂されるというこの考え方は、要するに、社会に「何でもありの放縦の態度」を齎し、その反射として社会的紐帯を弱めてしまうという半面をもつ。

 そして、自己の選好する価値観を共有する者のみとの絆を強化するように動き出し、自己の選好と異なる価値観に対しては、「それは僕たちの考え方と比べると相対的に違うから受け入れられない」という主張を許すこととなって、相反する立場にある者らを拒絶し、彼らと距離を置くことを正当化するであろう。

 価値観については、理解の段階と、受容の段階に分解して把捉する必要があるように思う。グローバリズムの深化によって他文化(芸術・科学・宗教)に対する理解が広まっていったことは事実である。少なくとも、「他文化理解は重要である」というくらいの共通的な直観を人々に共有させるくらいの影響力は及ぼしてきたと言えよう。しかし、もし仮に、他文化について理解の段階から先に進めない、つまり理解はできるが受容はできない(「あなたがそれを好むのはあなたの勝手だが、僕にそれを好むように仕向けるのはよしてくれ」というような)状況に陥るならば、個々人の連結によって構成される社会の紐帯は失われ、社会の純化と分断が進むようにな事態となってしまう。

 私は、価値相対主義については、個性の理解と受容という懐の深さと同時に、理解および受容できないものに対しては冷酷な処遇を持って迎えるという二面性を内包していることに気付くべきであると考える。価値相対主義を重視するのであれば、その点に特に留意を要するであろう。

 ところで、そもそも個々人の紐帯を強め、社会的な同胞観を涵養・強化する術は、一種近代の失敗を補正することから生まれた価値相対主義以外にはないのであろうか。私は、そうではないと考える。なぜなら、私は、人間には絶対的な善悪観が備わっており、ある一定の枠を超える状態(特に悪徳に属する事項)は許容されず、他方で、万民にとって共通の福利を齎すような一定の態様とは必ずや存在すると確信しているからである(これについては稿を改めて詳述する)。

 価値は全てが相対的に終始するわけではない。繰り返しになるが、全ての人間存在に通底し、共感・共有されるべき絶対的な善悪的直観(価値観)は必ず存在する(私は、内心では密かにその絶対的な善悪に関する直観と言うのは我々に生来的かつ原初的に備わっている素朴な道徳的直観にあるのではないかとみているのだが…)。

 いずれにせよ、価値相対主義が社会の純化・分断効果を内在していることは間違いない。そうであればこそ、価値相対主義を唱えるからには、必ず他文化理解の段階で停止するのではなく、受容の段階まで駒を進め、共感・共存すべき社会的客観として相手を受け容れるところまで進まなければならないであろうと思料する。

 価値相対主義と絶対的な善悪観、及び、道徳と法の関係については後日日を改めて検討を続けたいと思う。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。