第三の自由

憲法概論
07 /08 2019
 近代市民法において義務の根拠となるのは、当該行いが自由意思の発露の結果だからである。簡単に言えば、自分で考えて決めてした意思表示なのだから、その結果は自ら引き受けよということである。しかし、意思表示によって権利・義務関係が確立するためには、意思が形成され発露されるまでの過程に瑕疵があってはならない。すなわち、意思形成の段階において、その意思表示が齎すであろう将来的な結果の蓋然性(そのように判断すると、どのような結果になると予測される可能性が高いか)についての見通しが立っていなければ、真の意味で自律的に自由に選択的な意思表示をしたとは言えない。ところが、我々の生きる世界では、将来を確実に見通すことは不可能である。つまり将来の不確実性に関して我々は絶対的に不自由なのだ。
 自由には3週類あると考えられる。第一は、権力からの自由。これは中世から近代へと変遷する過程において国家と国民の関係を社会契約という概念を用いることでコペルニクス的に転回することで解決した。今や我々人々は、国家の行く末、その在り方を最終的に決定する権威ないし力を有している。第二は天然の自然、すなわち重力その他の物理法則(いわゆる自然の摂理)からの自由である。しかし、今や我々は完全でこそないにせよ、肥大化して目覚ましく進捗する科学技術によってこれらの制限を大きく克服しつつある。大海原を駆け、空を思うままに飛翔し、月へ降り立つことさえ実現した。もはや人類は、科学の力によって事前的摂理すら超克し、やがては生命に課せられた寿命の制限すら取り払うかもしれない。

 だが、第三の自由は未だ手にできていない。それは将来の不確実性からの自由である。未来予測は、科学技術が前述の程度にまで進歩した今でさえ、ほぼ全く不可能であり、選択の必要があるときには、先例に倣うか、これまでの人生で慣れ親しんだ方法を選ぶより他ない。しかしながら、人生は選択の連続であり、その選択の蓄積の結果それ自体がその人の人生であるとさえ言うことができる。にもかかわらず、我々には将来を見通して正しく選択できる保証はなんら持ち合わせていない。つまり、将来の不確実性という不自由から逃れる術は全くないのであり、つまるところ、人生の成否は選択において当たりを多く引いたか、外れを多く引いたかにかかってくる。全くもって運次第なのである。果たしてこのような状態における選択を本当に自律的で自由な選択であると評価しうるのであろうか。答えは断じて否である。

 人は将来の不確実性からは逃れられない。すなわち、第一、第二の自由を獲得した人類は今、将来の不確実性から自由にな方法を考える段階に至っているということになろう。しかし、将来の不確実性をただ甘受するしか術がないというわけではない。とういのもA・マズローが示した様に、自己実現には段階があり、各段階においてひとつずつ不確実性を排除していけば、誰もが、自律的で自由に自k実現できる時はいつか必ず到来すると信ずる。

 例えば、水、食糧といった、生命維持に最も根源的な資源について考えるならばそれらが豊富な場所に生まれるか、欠乏した場所に出生するかは、人には全く選択の自由のない偶然の支配する事柄であるが、この不平等は、資源配分の平等を構造的に実現すれば克服できる。安全についても同様で、出生地の治安の良し悪しはまさに運次第であるが、是正の意思さえあれば人為的に改善可能である。そして、生存及び安全が確保されれば、自主性を求めて自律的に活動する為の前提条件が整うことになる。ここから先は、個人の特性と能力により決定されるが、どのような選好の傾向を示し、あるいは何をどこまでできるかについては、ある程度までは本人の努力で克服できるとしても、特に市場経済における競争に勝利するためには、競争に参加できるだけの元手、すなわち資本の有無が決定的な要素となるが、その多寡もまた運に支配されている。だが、その運不運の問題は、資本や富が一定の場所に偏ることなく、適正に分配される仕組みが構築されれば解決可能である。そして、ここまでの不自由が超克されれば、残る自己実現の可能性は大きく拓けてくると言えよう。病気や身体欠損の治療、補充は、驚異的な速度で実現している。あとはそれらを利用するための経済的平等さえ実現できればよい。

 従って、我々は、資源と富の適正な配分と分配によって将来の不確実性をも統御し、第三の自由を獲得することは決して不可能ではないのである。グローバリズムは、死の種とも呼ばれる経済的格差を世界中に撒き散らしたが、他方では時空の制限やその制限に関する意識的障壁を押し下げ、各主権国家間の経済的相互依存度をこれまでにはなかった程に高めることで、「民族」ではなく「地球人類」という概念を生み出しそれを強化した。

 これはグローバリズムがもたらした数少ない福利の一つであると考えられる。答えは見えてきている。富と資源の分配と配分の実質的平等を実現すること、そしてそれを実現するための超国家的権威の構造を創出することである。具体的に言えば、国連改革を本格的に推し進め、各主権国家の主権の最高性をも超越し、必要に応じて内政にも合法的に鑑賞できるような力を持つ民主的な世界政府を樹立すること、そして各個人の水準においては、民族性の特質よりも、世界人類としての同胞観を優先するように意識を改革し、その上で、各民族、文化の多様性を理解して受容することである。世界人類であるという同胞観という共通基盤を無視して各人が手前勝手に多様性を主張すれば、純化と分断が広がるのみである。

 国内におけるのと同様、世界人類としての同胞観に依拠して主権国家間で水平に互譲するとともに、主権国家の主権の一部を世界政府に民主的な過程を経て委譲し、そこで制定される正統な国際統一法へ恭順することで全世界的調和は必ずや実現するはずである。

 こうして形成・組織・運営される世界にあっては、もは各主権国家は自力救済のための武力を保持する必要はなくなり、核廃絶の可能性すら夢物語ではなくなると信じるに至ることができる。
 また、こうした世界においては、すべての個人が、出生の運不運などといった自己の意思では如何ともしがたい、運命としかいいようのない軛を離れて、豊かに自己実現を果たすことの出来る将来は必ずや到来するであろう。我々が第三の自由を獲得することは決して幻想ではないのである。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。