放縦と経験、格率と自由率

所感雑感
07 /02 2019
 経験は人生における諸所の選択場面において教訓的作用を齎し、それに基づけばより善い判断の基準となることがあり得るが、経験さえあれば、常により正しくより善い選択を為し得るという保障はない。経験者が少なくなったから歴史が受け継がれなくなる、確かにそうした側面を否定はしないが、経験が必然的に人に過ちを避けさせ、正しい選択を為さしめるわけではないことを知っておく必要があろう。
 経験は、人の人生における選択に際し、確かに主要な要素であるが、やはり最終的な倫理性、即ち、より正しい選択ができるか否かは、その人の精神がどれだけ善に向かっており、また善に向かうよう鍛錬されているかで決まる。経験から成否は学べるが、その経緯を経験的に「知っている」ということと、それに基づいて「正しい判断ができる」ということは必ずしも直結しないということを心に留め置く必要があるように思う。

 先ごろ、私と共同生活をしている人の中に、明らかに終戦前後の物不足と混乱を経験しているであろう人がいるが、その人は毎日毎回大量に与えられた食物を捨てる。病院の中でのことであるから、病状の進行の具合によって食べようにも食べられないというのならわかるが、「嫌いだから」「好かんから」と言って平然と捨ててのけるのである。長く飽食の時代を生きてきて、かつての飢えの経験を忘れたのか。いや、そうではあるまい。心が善に向かう鍛錬の未熟がその行為をさせていると捉えるべきであろう。

 戦争それ自体も同様である。戦争の経験(特に核兵器が人類史上初めて使用された第二次世界大戦の惨状)を語り継ぐくことは極めて有意義であり、今後も為し続けていくべき善事である。しかし同時に、平凡に繰り返される毎日の中で、自己を律し、悪を避け、善を選び取る心の鍛錬を怠るならば、かの災厄は三度、いや、全人類の滅亡の時まで延々と繰り返されるであろう。カントいわく、経験を通じて善を知り、その善を反復することを通して自己を統御する格率を獲得・実践する以外に、人が社会的存在としてより善くあることはできないのである。

 あらゆる価値を相対化して、すべてを放縦に任せるべきではない。人が社会において他人との間で円滑に生活を続けていくためには、従うべき善き格率、しかもそれは相対的なものではなく、ある種絶対的な格率があるはずである。私は、人間が社会的動物である以上、必ず選ぶべき絶対善と、決して選ぶべきでない絶対悪は確実に存在し、その両者を除いた残余の部分については、各個人の思うままに自由に選択を為してよいのだと考える。従って、「多様性の理解と受容」というお題目の下で、結局すべてを無制約に放縦ならしめている現在の社会は改められるべきである。

 要するに、カントの時代からいわれるように、社会的な節度としての格率の涵養こそ急がねばならない。今の社会にはその節度が欠落しているのだ。現代という時代は、まさしく価値相対主義という重篤な病に枝葉末節まで侵されており、その病理は深いとしるべきである。

 私は、この節度、即ち絶対的善悪の領域と自由選択が許される領域の線引きが重要であり、鍛錬によって自己の心を一定の善の方向に引き締めるという意味で、カントの格率に倣い、これを自由率と称している。自由の中でより善き選択を自律的に為す自由率こそ、次代へと我々を導く鍵なのではなかろうかと、そのように観念する次第である。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。