自由率

憲法概論
06 /30 2019
 自由であるということは、眼前に広がるあらゆる可能性の中から失敗のないように自己の特性を最も有意義に活かせる選択肢を自律的に選びとるということであり、「権利がある」ということはそれを行使するに足るだけの義務を果たさねばならないということを意味する。自由と放縦は異なる。なぜなら、生きることを運命づけられたことが人間の自然的な本性であるという仮定が正しい限り、自己破滅的な選択はその本性に反し、許容されないからである。
 即ち、自由は自身の可能性を拡げ、より善き自己実現を果たすための自律的な選択であり、権利は当該自律性発揮の為に用いるべき道具、つまりより善く生きるための手段なのであって、その行使には義務を伴う。従って、人が自由であるというためには、より善く生きようとする義務を負うのであり、また他者が同様に善と幸福を追求することを不当に妨げてはならず、これらの義務を権利に転化してはじめて自己実現は果たされる。より善く生きようとして己を律し、他者も同様の権利を有していることを認めて相互に理解し、受容しあうことで初めて自律的な自由は成立する。私はこれをカントの格率に倣って自由率と名付けたい。

 人は過剰に利己的であってはならず、他者との共感と、他者への同情を抱き、共存に向かう努力を惜しんではならない。また、必要なものが必要な人のもとに遍く行き渡るように富は再配分されなければならない。全人類が安寧に平和を享受し、恐怖と欠乏を免れる為には、主に経済的(生活の基礎的な糧における)実質的平等を実現するより他にない。富を必要とするのは富を持つ者ではなく、貧困に喘ぐ者である。貧困は決して罪悪を正当化するものではないが、しかし貧困は必ず犯罪を生む。従って、犯罪を事前に予防し、抑止する意味でも、過剰な貧富の格差は速やかに(公権力による強制的な介入をもってしてでも)是正されるべきであり、またそうすることは社会の安寧的持続の為に有意義である。

 では、公的領域と私的領域を如何に線引きし、自由と平等を如何に両立すればよいのか。自由は私的領域と親和的であり、平等は公的領域と親和的である。その意味で両社は対概念であり、定立・反定立の関係にあると言える。ではそれらが止揚するとき、果たしてどのような新定立が誕生するのか?

 人間は適切に自己実現が果たされなければ自暴自棄になり、自滅的或いは掃滅的になる。そうなれば自傷、他傷の行動に駆り立てられ、社会において恐怖を齎すこととなる。そうであるからこそ遍くすべての人々が適切に自己実現できるよう富が再分配されることが重要なのである。

 即ち、自由と平等を自由率を媒介して止揚することにより、すべての人々に適切な自己実現を為さしめる新定立を止揚すべきことこそ自由率の精髄なのである。

日本や欧米諸国に出生したからより多くの富の分配に与り、アフリカ諸国や中南米諸国に出生したために逃れ得ぬ貧困に絡めとられるという事実に首肯する必然性は全く欠く不合理である。出生場所という本人の意思では如何ともし難い要素によって不平等を強いられることは当に不公正である。人は、どこに、どのような人種で、如何なる道徳的(あるいは宗教的)価値観をもつ社会に生まれようとも、自律的に(自由に)自己決定を為し、思うままに自己実現を果たし、幸福を追求する権利を自然的に有している。従って、一国家においてはもとより、国際平面においてもなお、新自由主義とグローバリズムの結合によって齎された不合理な格差は是正されるべきであり、すべての域とし生ける人々に自律的な自由が実質的平等に賦与されることが必要である。

 人類は二度の世界大戦を通して拓くべき扉、即ち国民国家の枠や民族的価値観を越えた人間としての緩やかな結合による世界平和の実現という目標をこそ探し当てたが、その扉を開く鍵は依然見つかってはいない。個人の多様性を理解し受容すると同時に分断と純化に陥ることなく人類としての同胞観を根底的に共有すること、これらの対概念、つまり定立と反定立を止揚するものこそ、探し求めるべき鍵である。自由と平等、競争と公正な分配、これらを結合するものが見つかれば我ら人類は現代の軛を逃れて次の時代へと進み行くことが必ずやできるであろう。そして私は、自由率こそ、その鍵となるものと確信している。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。