人間の社会性と経験に関する考察

所感雑感
06 /29 2019
 人間は、経験を介した学習によって、特定の振る舞いが齎す結果を予測することができる。ならば、経験の蓄積によってより善い選択を為すことは可能であろうか?これについては2つの点で不可能であると考える。
 第一に、経験とは要するに特定の一時点において体得された過去の偶然の事柄に関する記憶である。数学や物理学のような純粋科学的あるいは自然科学的法則に関する経験及び知識は再現性があるために将来の結果予測に役立つであろう。しかし、個人の選好や偶然によって経験した事柄は、自然科学等における経験とは根本的に性質が異なり、ある特定の時空における一時の記録に過ぎず、客観的条件を全て同一に揃えたとしても、同じ結果が再現されるか否かについては完全に未知数である。

 そして我々の経験とは、前者のような自然科学的なものではなく後者の経験であり、相互に相手がどう振る舞えば如何なる結果が各々の行為主体に齎されるかということについて、ほとんど予測不能なままに意思決定をし、為すべき行為を決定せざるを得ない。つまり、人間の世界は、将来の不確実性の上に成り立っているのである。こうした状況において、相互に自由な個々人はどのような社会的関係を取り結べば善いのであろうか?そもそも、複数の人間が同じ時空に存在する時には、その関係性についていったい幾通りの可能性があり得るのか、まずはそこから考えねばなるまい。

 その関係性については、大きく、共存、侵害、掃滅の3つの可能性が考えられよう。言うまでもなく共存が最善の選択肢であり、侵害は抑制され、掃滅は絶対に回避されるべきということになる。なぜなら、我々人間も一種の動物である以上、まず安寧に生存を維持することが大前提だからである。しかしながら、複数の人間存在が全く気ままに自己に内在する自由を行使しようとすれば両社は時に矛盾を生じ、相互に侵害を免れ得ないこととなる。故に、互譲を為さざるを得ず、また互譲のための何らかの制約ないし約束が要請される。いわば、この個々人間の利害得失を調整し、規律するものが求められるわけであり、それが規範(ルール)である。

 ここまでで、人間には自己の生命や遺伝的特質を超越した価値観を個々人が自由に有しながらも社会的結合を基盤とする生命体であること、そうした存在が織り成す社会には公私の境界を設ける必要があり、近現代的な憲法が根差す立憲主義によってその境界が区分されること、加えて、個々人間の多様な価値を包摂しながら共存を実現するための何かしらの規範(ルール)が必要であることがわかった。それでは、多様な価値観を備える個人を社会的に結合させる紐帯となるべき規範(ルール)とは何であるのか、次にそれを考えねばならないであろう。その候補となるものは無数にあるが、中でも特に個人の価値観に大きな影響を及ぼすものとしては、宗教的信条、民族的一体感、道徳、ナショナリズム、法などを挙げることができよう。

 宗教的信条は結合力が強固で排他性が高く、理不尽かつ神秘的で非科学的なまさに信条である。これに依拠する社会はよくまとまりはするが、同じ宗教の内部でも教義や宗派によって分裂・純化を引き起こしやすく、内部分裂の危険を常に孕んでいる。また、歴史の長い宗教ほど、内容が原始的かつ硬直的で、異分子に対する譲歩の余地が少なく、故に全人類を束ねる規範(ルール)としての機能を求めるのは難しい。

 民族的統一感も宗教的信条に似たところがあり、排他性と純化の問題を抱える。

 ナショナリズムもほぼ同様であり、自国民であるという主権国家の構成員としての結合力を高めはするが、それは同時に他国民を別異に区別しようとする圧力を生じることになる。

 残るは道徳と法であるが、これらについてはより詳細な検討を要する。法と道徳をめぐる論争は、法哲学や法理学の分野で盛んに行われてきた経緯があり、法とは何か、道徳とは何かという本質的な部分さえ未だに鋭い対立が見られる。両社の差異、および関連性を巡る議論については、法の外面性と道徳の内面性に着目するもの、権力による強制力の有無に着目するもの、法と道徳を完全に峻別すべきとするもの、法と道徳に一定の関連性を見出そうとするもの等、多種多様である。その中に、法と道徳を人倫における客観的道理という土壌に植えられた木に譬え、根に近い部分が道徳であり、その部分では道徳的価値観を強く反映した法領域となり、枝葉末節に行くにつれて道徳的側面が薄れ、表面的には全く無関係に見える法領域へと拡散していく(眞田芳憲『法学』)という説があり、説得力を憶える。なお、道徳的価値観を強く反映させた法領域とは、殺人や窃盗を禁ずる領域であり、人の善悪観が一定の(悪の)方向に傾斜することを抑制するものであり、他方、一見道徳的色彩が垣間見られない法領域とは、例えば自動車は道の左右のいずれを通行するべきかといったような善悪観とは直截接続しない調整問題の解決に資するものである。

 人間存在には、生命の保護や他社への侵害の回避といったような自然的な制約を課す人倫における客観的道理が存在し、そこから方途道徳が連続的な連結を保ちながらも徐々に分化していくというこの説は、法と道徳の関係性についてのひとつの答えを提示していると評価できるが、私の見解はこれと多少異なる。

 思うに、道徳とは人間存在に生来的に、或いは先験的(ア・プリオリ)に体得している素朴で原初的な、しかし最も基本的な善悪の判断にかかる主観的直観で自然的に人間存在が具備している規範(ルール)であり、他方、法規範は客観的・人為的に作成される規範であり、道徳的な善悪の判断の基準を提供するものもあれば、単に調整問題を解決するための指針を提供するに留まるものもある。また、宗教的教義と道徳規範が接着している場合には聖典の形で有形的に道徳規範が存在する場合もあるにはあるが、多くは単なる慣習の蓄積に過ぎず出自不明の、或いは神秘的な形でしか存在しないが、法規範はその大部分が成分法典という有形的な形式を伴って存在し、それは人民から正統な授権を受けた立法府(議会・国会)が人為的に作成・改変・撤廃する優れて客観的な存在である。

 以上を約言すれば、道徳規範は生得的(自然発生的)で素朴かつ原初的な善悪判断に関する主観的直観であって正統な作成者というものは基本的には存在せず、対して法規範は、道徳善悪に係る規程であっても客観的に分類・整頓されており(罪刑法定主義など)、正統に授権された作成者が存在する。その意味で、道徳と法は対概念であり、定立・反定立の関係にあると言えよう。

 それでは、道徳を定立、法を反定立としたとき、新定立として止揚するのはどのような概念であろうか。それを考えるためには、次のふたつの事柄を検討する必要があろう。ひとつは、道徳も法も規範(ルール)であるならば、なぜ人間存在は規範(ルール)を必要とするのかという点、今一つは絶対的な善悪の基準となるべき規範(ルール)は存在するのかということである。

 「自由である」ということはあらゆる選択肢の中から自律的に任意の選択肢を選ばなければならないことを意味する。我々は経験に基づいてある程度将来を予測することができる(過去・現在・未来の概念の連続性を想起できる)が、やはり本質的に将来は不確実である。近現代において自由を享受する我々は、将来の不確実性を前提に、自律的に選択を為し、その結果を無条件に受け容れざるを得ない。即ち、選択の自由は与えられているが、望む結果を得られるか否かはわからないということである。例えるなら、賽子を振る自由はあるが、出目については運次第ということである。しかしながら、この状況を本当に自由であると言うことができるのか、私には甚だ疑問に思えてならない。本当に自由である、自由に幸福を追求できると言えるためには、選択に迷ったとき、より善き選択を示してくれる道標が必要であり、それこそが規範(ルール)となるべきである。従って、人間には、それが道徳であれ、法であれ、何らかの規範(ルール)が必要になるのである。

 では、絶対的な善悪の規範というものは存在するのか?私は、それは「ある」と考える。無論、価値観の多様性を理解し受容すべきという現代的な要請は否定しない。しかし、人間にとって絶対に服すべき規範(ルール)というものは、確かに存在する。それは個人にとっての利害得失と善悪の相関関係から見えてくるであろう。 

*「公私に係る憲法の境界画定機能と自由率」を参照
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。