公私に係る憲法の境界画定機能と自由率

憲法概論
06 /29 2019
 人間社会において公私の境界を画定する法技術的機能を憲法は備えている。権力の構造と権限を定めることによって公権力の及ぶ範囲の限界を画定する近現代的憲法は、公私の境界を識別する基準となり得る。近現代憲法に基づいて、主権者たる国民から正統な権限移譲を受けて構成される立法府(議会・国会)が制定する法律が正統性と正当性の両面において憲法の篩にかけられることで、公権力がどこまで私的領域に踏み込んで権利を付与し、義務を課すことができるかという、議会制定法即ち公権力の及ぶ射程が定まるのである。このように、私人と公権力における垂直的関係については、憲法の立憲的機能を介して、私人と公共の境界を画定することができる。
 他方、我々人間は、信条や道徳観について多様な価値観を有し、少なくとも近現代社会においては、あらゆる個人に対し、自由と平等が保障されるものとされている。この擬制が人類の社会的な在り方として正しいと仮定した場合であっても、人間またはそれらが構成する社会においては個人間の相互的関係における私的段階においても保障されるべき自由と権利の水平的調整もなされなければならない。

 しかし、これは非常に解決が困難な問題であり、容易に答えの見つかる事柄ではない。というのも、各個人は、少なくとも内心においては全き自由を有しているのであり、あらゆる選択肢を有し得るからである。しかしながら、その全き自由を各個人が全く無制約に行使するならば、必ずや衝突と相互侵害を生じる。従って、各個人がそれぞれに自制、即ち人権の制限を自律的に行うべきことが要請されるのである。それでは如何なる基準において当該自制はなされるべきであるのか?

 道徳、宗教的信条、民族的伝統、ナショナリズム等、様々な要素をその基準として想定し得るが、これらの中に答えは含まれるのか。それとも全く別異の尺度が発見されるのか、検討を要すというべきである。

 まず第一に、全人類に通底し、該当する善悪観は存在するのか否かを考えねばならないだろう。かつて近代と呼ばれた時代において、人間を合理的で抽象的な普遍的存在と見做すことによって、人間存在を平等に取り扱おうと試みられたことがあったが、個々人の特殊性を捨象することはかえって不平等を齎すことが史実的に証明された。それ故に、現代的諸価値が誕生してきたという経緯がある。各個人に特有の個性をありのままに理解し、受容しようとする価値相対主義はそのようにして生まれたものである。

 しかし、価値相対主義は多様な個性と価値観の理解と需要を促す一方で、あらゆる価値を相対化し、人間の善悪観を曖昧にした。そして究極的には「殺人罪が存在するから、その罰則を回避するがために殺人を行わないだけで、法による規制が無ければ殺人すら本質的には許容される」とするような考え方さえ生み出しかねず、こうした危険思想さえもが、価値相対主義の下では「個人の信条における自由」として是認されてしまう虞すらあるのである。だが、このような考え方、すなわち、殺人、欺罔、侵奪、虚言などが、法規制がなければ許される等ということは当然あり得てはならない。如何なる時代の如何なる社会にあってもこれらの概念が社会的に是認されるべきでないことは事理分別のつき始めたばかりの子どもであってさえわかることである。それでは、古今東西を問わず、全人類に通底する絶対的善悪観とでもいうべき普遍的価値観は存在するのか?私は、それは存在すると考える。

 例えば、今ここにA、B、Cという3人の人間からなる社会があると想定しよう。

 Aにとって、自分が他人に対して事柄Pを施すことは損である(例えば、税金の支払いや公的扶助の財源の提供など)が、他人が自分に対して施してくれるのは善いことであるとする。これはAにとっての主観的な絶対善である。

 次に、事柄Qは、Bが他人に対して行うのは得である(例えば、欺罔や詐取、脅迫や私怨を晴らすための傷害・殺人など)が、他人が自分に対してそれを為すのは悪であるとする。これはBにとっての絶対悪となる。

 更に、CがA及びBと共生する場合、AがBに対してPを為し、BがAに対してQを為さないとき、CはAとBとともに生きる社会は平和な社会であると認識する。そして、AがCに対してPを施し、BがCに対してQを為さないとき、当該社会はCにとって善なる社会ということになる。なぜなら、PはCにとっての主観的(絶対的)な善であり、QはCにとっての主観的(絶対的)な悪であるからである。そしてCに該当する事柄は、他のDやEにも普遍的に該当するのであり、従って社会全体に通用する絶対的な善悪観は存在すると考えることができる。

 人は、内心、道徳、法などの様々な性状の規範に従ってする行動を介して得られた正邪・成否の経験を選択基準に加味することで、選択肢をより善く吟味することができる。その繰り返しによって人格は形成され成熟し、特定の性向を有する個人として仕上げられていく。

 中でも、道徳は人間に生来的に備わる素朴な善悪に関する直観であり、これらを普遍性の篩にかけて得られたものを法として昇華するとき、法は社会を安定させる道具として、憲法の許容する範囲内で善く機能する。

 素朴な道徳をそのまま法に転化することはかえって人々の自由の範囲を狭め、制限して社会的多様性を毀損する虞がある一方、道徳的直観を無視して専ら社会秩序の維持のみを目的として立法がされるときには人権への不当な介入や侵害を許すことになろう。法と道徳は相補的であるとともに、定立と反定立の関係にあり、両社が止揚するとき、社会の安定的維持と自由の実現、いわば自由意思の下で人々に人間としてのより善い在り方を選択させるよう導くことができる。

 そして、これら法の社会における射程を定めるのが憲法の立憲的機能の中核なのである。私は、この憲法の公私画定機能を基軸とする一連の過程を経て、個人が無数にある人生の選択肢の中から自己の将来にとってより善い選択を絞り込む(率は本来絞るの意を持つ)作用を、カントの格率に倣って「自由率」と名付けたいと思う。

 憲法がその機能によって公的領域と私的領域の境界を垂直的に画定し、公権力の個人的自由に対する影響の射程を定めると同時に、私人間においては自由率によって水平的に自由の限界が確定されるとき、社会における各個人の自由は公正に保障されるのであると確信する。即ち、自由に関する「憲法による垂直的射程画定機能」と「自由率による水平的射程画定機能」こそが社会に公正を齎す鍵なのである。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。