国際社会はどこへ向かおうとしているか

所感雑感
06 /28 2019
 人類の理想の大方の趨勢としては、民主制を目指し、諸民族間の価値観の違いや多様性を理解しつつも、人間であるということを連結店として緩やかに融和・共存する途を模索すべきである。少なくとも、第二次世界大戦直後まではまちがいなく、そのような在り方を模索していた。しかし、今やどうであろうか?
 世界平和の舵取りをすべき5大国(米・露・英・仏・中)のうち、最強・最大である米国は自国最優先の旗を掲げて世界の盟主の地位を自ら降りるといい、並ぶ強国の英国は人類融和の可能性に関する一種の試験的試みであったEUからの離脱を選択し、仏は世界協調への疑心暗鬼から核武装に走り、昨今急成長を遂げ、経済的にも軍事的にも力を備えた中露は、拒否権の故に己の頭上には絶対に制裁の鉄槌が振り下ろされることはないことをよいことに、世界覇権に向かう野心をむき出しにして隠そうとすらしない。

 我が国は、人類史上稀な程に誉れ高き絶対的な平和憲法を有しながらも、こうした大国の混乱と野心の中で恐怖のあまり右往左往し、半世紀以上の年月をかけて育み護り通してきた不戦を誓う憲法典を、用済みの紙屑同様に捨て去ろうとしている。「臆病風に吹かれる」という言葉はまさに今の我が国の為にある言葉のように思えてならない。

 戦後スキームと呼ばれるもの-そこからの脱却を唱える者もことの他多い-は果たして何なのであろうか?あるいは如何なるものであったと把捉すべきなのであろうか。まずはそれを思い出すことから始める必要があるように思う。

 第二次世界大戦後、二殿世界大戦の惨劇を目の当たりにした人類(特に戦勝国たる連合国)は、真剣に世界平和の実現を考えていた。それは理想や夢想としてではなく現実の課題として捉えられていた。故に、連合国は、国際連合を結成し、二度と戦争の惨禍が繰り返されることのないよう、加盟国による民主的な意思決定の仕組みとして総会を設置したのみならず、総会決議が衆愚と熱狂に歪むのを回避するために5大国に拒否権を与えたのであった。

 また国連憲章7章には、国債の平和と安全を脅かす存在が現れた時には、国連加盟国であるか否かを問わず、武力制裁を含めた各種必要な制裁を為しうることを定め、もはや世界平面上に存する各国が独力で自国を防衛する必要がない仕組みを構築し、弱小国が自力救済に頼る必要すらなくしたはずであった。しかしながら、各国の個別的自衛権は自己防衛のための自然的権利であるとして、時限的にそれを認めると同時に、南米諸国の強い要請を拒み切れず集団的自衛権の行使すら認めてしまったのである。

 こうして、国連を中核とする集団安全保障の構造、即ち、各国が自力救済の手段を持たずとも全世界の平和と安全が保障され、三度は大戦が起こることのないようにするという目論見は、その出発の瞬間から既に小さな綻びを抱えていたのであった。それでも、当初人類は、当に国連を中核とする集団安全保障体制に心底から期待を寄せていた。世界から、戦争という悲劇はなくなるであろうと…少なくとも1950年までは。いずれにせよ、国連を中核とした集団安全保障体制に依拠した世界平和の実現と、世界から自衛の必要すら無くすことを目指した構造、これが戦後スキームとよばれる枠組みであった。

 では、なぜ戦後スキームは失敗したのか?

 戦後70年余りを経て、社会主義がその理念通りに機能しないことは歴史がそれを実証したが、資本主義の側もまた、新自由主義とグローバリズムの融合が市場経済に深刻な変調を来したことまた史実の示すところである。第二次世界大戦後、三度かの惨劇を繰り返すことだけはすまいと世界平和を希求していた。しかし、資本主義と共産主義という経済的イデオロギーの対立が再び世界を東西陣営に分断し、双方が諸地域を自陣に組み入れるべく争うようになった。いわゆる冷戦の構造である。これにより、人類の世界平和に向かう願いは、わずか第二次世界大戦後5年余りで)挫かれてしまったのである。その後も米ソの直接対決こそ回避されたものの、朝鮮戦争(1950年)を皮切りにして世界各国で米ソの代理戦争や小規模な内紛が絶え間なく繰り返され続け、人々は疲弊し、数十年を経るうちに、終に世界平和はやはり幻想に過ぎないとさえ考えるようになったのである。西側は北大西洋条約機構(NATO)を、東側はワルシャワ条約機構を組織して、世界中の諸地域を自陣営に組み込むことに注力し、本来国際平和の為に誕生したはずの国際連合は、西側の米・英・仏と東側のソ連(現・ロシア)・中国が対立して互いに拒否権を濫用して機能麻痺を起こし、結局世界は第二次大戦以前の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の構造へと引き戻されたのであった。しかも、第二次大戦後の勢力均衡は核兵器保有量の多寡で均衡を図るという悪夢のような有様(MAD:Mutual Assuered Destroy)となり、その均衡の破綻は人類の滅亡を意味するまでに至ったのである。ラッセルやアインシュタインを始めとして多くの科学者を中心にMADによる勢力均衡の危険が叫ばれたこともあって、核戦力を用いた米ソ直接対決という最悪のシナリオこそ現在までかろうじて回避されてはいるが、経済的自立の難しい小国や諸地域、及び米ソにとって利益をもたらす有用な資源を有する国家や諸地域間において東西いずれの陣営に与するべきかをめぐる対立を惹起したことが、代理戦争や内紛の原因であった。

 かくして第二次世界大戦後70余年を経て、MADという、相互に死神が鎌をお互いの首元に突きつけ合うような、真の平和とはほど遠い仕組みによって、かろうじて第三次世界大戦は抑止されてきたものの、結局世界は再び悪夢の中へと引き戻されてしまったのである。

 ただ一度、90年代にソ連が崩壊し、冷戦が終わりを迎えた時、世界平和の実現が遂に前進を見せるのではないかという希望の光が一条差し込んだかに見えたが、それも長くは続かず、2001年の9.11同時多発テロが、世界中にこれまで経験したことのない、国家ではない相手との戦いという全く新しい脅威の構造を持ち込んできた。皮肉にも、国際テロリズムとの対決という新しい構図は5大国を始めとする世界各国の協調を促し、多少の不協和音はありながらも、世界平和に向かおうとする機運を一時的に高めはした。しかし、イラク戦争、イスラム国との戦いが一段落して共通の敵が脅威でなくなるや否や、今度は力を蓄えた露・中が覇権に向かう野心を露にし、またしても世界は対立への道へと後退してしまった。

 更には、英国のEU離脱、アラブの春という名の西アジア・北アフリカ地域の混迷、北朝鮮の不穏という新たな問題が次々に勃発し、世界平和はもはや語るに落ちることとなってしまった。そして、MADという逆説的な構造によってかろうじて平和が維持されているのみで一向に前進を見せない状況に人類は絡めとられてしまったのである。

 しかし、顧みなければならない。現在のこの状況はほぼその全てが冷戦時代の米ソ代理戦争がその淵源にあるのだということを。中東の混乱は、石油利権をめぐる東西勢力の思惑の交錯からはじまったものであるし、朝鮮半島情勢はまさに冷戦の鬼子である。つまり、冷戦さえ生じなければ、人類はもっと違った形で世界平和を模索できたであろうし、共存的発展を享受できたかもしれない。全ては、資本主義と共産主義という経済的イデオロギーの対立が齎したものであり、一見して宗教対立や民族対立に見える諸紛争の背景には全て冷戦構造が潜んでいることを看破しなければならない。

 価値相対主義に基づく価値観の多様性と相違が紛争の直接の種なのではなく、そう見えるように巧みに偽装されていただけなのであり、米露は今こそ、そのようにして世界各地に紛争の火種を撒き散らしたことの責任を負うべきである。即ち、米は世界の警察的地位を自棄する等と言ってはならず、露は覇権の野心をちらつかせたりすべきでない。中国も同様である。5大国は自国利益を後回しにしてでも、世界秩序の回復と世界平和の実現に尽力すべきであり、既に混乱の渦の中にある諸地域に対し、公正に介入できる仕組み―それは世界的な規模での民主制による世界政府の樹立と国際統一法の制定しかないと考えるが―を整備・構築しなければならない。確かに経済は、人類の生存にとって不可欠の要素であるが、経済のために人類があるのではなく、人類のために経済がある。従って、経済的イデオロギーの対立の為に人類が滅亡の危機に晒されるなどということは馬鹿げた倒錯である。全ての力と可能性は、人類の永続と繁栄の為にこそ活かされなければならない。

 その理念的な是非はともかく、戦後70年、自由経済とのハイブリッド型を選択した中国を除いて、ただ1つの成功例もない共産主義が、少なくとも人類にとって適合的な制度ではなく、失敗に終わったことは歴史的事実が証明している。また、グローバリズムの風に乗って世界中を席巻した新自由主義的資本主義が、世界規模での格差を拡大させ新しい形の搾取の構造(モノカルチャー経済や低賃金地域への生産拠点移転に伴う産業の空洞化)という死の種を撒き散らし、決して資本主義が成功のみをもたらすものでもないことが史実的に実証された。

 そんな今、必要なものは全地球的規模で、政治・経済・社会のあらゆる局面を、各主権国家の主権をも超克して統御する存在である。それは民主的に構築される世界政府と、世界統一法の整備の他になかろう。主権国家間の勢力均衡の崩壊が核戦争による世界人類の自滅すら招きかねない今、できることはそれらを最終目的とする国連改革以外にはない。あまりに多くの利権が錯綜する国際社会において世界政府による統一的な世界統治等、夢物語にしか聞こえないかもしれない。世界統一法による法の支配に全世界が服するというのもまた所詮は幻想に思えるであろう。

 しかし、中世の絶対王政期において、市民が国王を倒し国民主権を確立できるなどと一体誰が真剣に考えたであろうか。また、キリスト教的価値観以外の多様な価値観を理解して需要する価値相対主義が実現するなどと本気で考えた者がいたであろうか。だが人類は、到底不可能と思われたこのような事柄を見事に成し遂げて今日に至った。ならば、今後はそういったことがなし得ない等ということは決してない。

 今こそ、世界人類の全てが自由と平等を享受し、恐怖と欠乏を免れて、個人が自身の運命に結び付けられた可能性の翼を最大限に広げて、思うままに自己実現することのできる環境を世界的な規模で現実のものとするために、第一歩を踏み出すべき時であると思料する。 
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。