主観が世界の中心であること

所感雑感
06 /23 2019
 世界は主観によってその内面に構築され、あらゆる客観は当該主観の知覚を通して認識されるのみであるから、客観の実存の真偽を問うことは無意味である。なぜなら、客観の実存が真であるとしても、それを認識し、作用を及ぼし、影響を被る主観の存在が偽であれば、その客観の存否は何らの意味も持たないからである。
 肉体とは主観にとっての器であり、主観と客観の境界線であって、主観にとっての檻である。そして主観は、少なくとものその存命中はその檻を越え出ることは出来ない。従って、当該主観は客観の構造と機能(例えばドアノブを回せば扉が開閉し、鍵を掛ければ扉は閉まり、蛇口を捻れば水が出る等)を認識していれば足りるのであり、それ以上探求する必要性はない。

 そして、成長とは、主観が客観の構造と機能に対する認識を拡大させていく過程であり、より多くの複雑な客観の特性を理解し吸収することで主観は内的に洗練され、自己実現へと向かっていく。肉体は、客観と主観の境界面(インターフェイス)であり、それを媒介して主観は客観を知覚し認識する。そして主観それ自体は肉体の檻から解放されることは(少なくとも生存中は)ないが、それでもなお、当該主観は世界の中心に位置している。

 このような性質を抱く主観が隣接し、併存して構成される構造体が社会であり、主観はその肉体に備わる各種の感覚器を介して経験した認識を通して他の主観、即ち当該主観にとっての客観に対して同情と共感の念を抱くことが可能になり、故に併存や共存が成立する。ただし、この併存ないし共存の核心はあくまでも肉体の檻の内に閉鎖された主観にあるため、誤解や衝突を必然的に避け得ない。こうした誤解や衝突を回避するためには、同情と共感の作用を用いて客観の態様を主観の感覚に内的に変換することによって客観の性状を推測し理解することで、当該主観にとっての許容可能性を評価し、許容可能な限度で譲歩を引き出すより外ない。

 これが人間相互間における互譲であり、共存を実現するための唯一の可能性である。しかしながら、譲歩の中核は主観が、その誕生の時から認識の時に至るまでに蓄積した経験知に依拠するのであるから、より善い共存の為には、各主幹が、檻の中に閉鎖された同情や共感の程度を深化し鍛錬するしかない。この深化と鍛錬に成功したものが善い大人なのであり、失敗した者は生き難さを抱える未熟者となる。従って、教育と経験による内面の善化が共存の鍵となる。そしてその鍵は、具体的には、ある主観にとって不快であり嫌悪されるべきことを客観に対して為すことを抑制するということを可能にするであろう。

 主観こそが世界の中心であり、主観の認識したものが当該主観にとっての世界である。従って、「真理とは何であり、それは実存するのか」と問うことは意味をなさない。真理の態様存否に関わらず、ある主観が如何なる生涯を送り、如何なる自己実現を成し遂げたかが、詰まるところ当該主観にとっては全てだからである。しかし、そうであるが故に、我々は価値相対の罠に絡めとられるのである。

 価値相対、すなわち多様な感性、生き方を理解し受容することそれ自体は悪いことではない。しかし、これを無制限に認めるならば、主観同士の衝突は一層激しさを増し、主観同士の対立を激化させることとなり、社会の純化と分裂を引き起こすであろう。主観が世界の中心であるにしても、すべての主観に普遍的に通用する客観的に絶対的な善悪観というべきものは本当にまったく存在せず、すべての価値観は相対化されるのか?今我々はその難問に直面している。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。