人が生きるということ

所感雑感
06 /23 2019
 「同情と共感によって多様性を理解し受容する」。言葉にするのは簡単だが、実際は困難を極める事柄である。この世界には膨大な数の人格や特性、性向があり、優しい、厳しい、親切な、ぶっきらぼうな、敵対的な、等々枚挙にいとまがない。しかも、一人の人間がひとつの特性だけを持つわけではなく、幾つもの特性を複雑に組み合わせた状態で有しており、しかもその複雑さの中にはしばしば自己矛盾すら確認されるわけであるから、このような特性を抱く人間が相互理解のもとに平和的に共存するなどということは当に奇跡に近いというべきかもしれない。
 しかし、我々は諦観してはならない。有限の時間の中でその運行を行うことが明白である太陽系の中の一惑星という場において生を得、認知能力を身に付けて世界を思索する能力を与えられて人間が存在することには必ずや何かしらの意味があるはずである。従って、人間の存在は、個人の「価値」ではなく、その個人の「意味」において把捉されるべきであり、それ故に生命は尊重され、生命に対する侵奪は罪と見做されるのである。

 誰一人として無意味な生はない。その足跡は必ず何らかの意味を有しているのであり、その名残は自然の摂理に従って次代へと受け継がれていく。故に考えねばならない。自分は何者であるのか、何を望み、何を求めるのか?そして客観たる世界(=他者)の為に何ができるのかを。

 主観としての自己は世界を把握する中心である。だからこそ、世界の様々な事象から目を背けてはならない。自己の関心と能力の及ぶ範囲でよいから世界(他人)に目を向け、それについて心を砕き、為しうべきことを為す、人生とはそうあるべきなのだ。他人(客観)の問題を自分(主観)の問題として捉え直すことができれば、自ずから自由には自律的な制限が掛かり、他者(客観)の抱く自由との衝突は解消され、互譲による調整と円滑な権威の以上は実現するであろう。

 神(真理)は、何故に我々を創り生かし給うのか。認知能力に限界を持つ我々がこの世界にあってそれを知ることはおそらく叶わぬであろう。しかし、己(主観)を知り、他者(客観)との協応の中で幸福を追求することはできる。

 だからこそ、雄々しく可能性の翼を広げてはばたき、自己実現をより善く成し遂げる為に生きるべきなのであり、それが人間存在の生の核心的な究極目的なのである。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。