神(真理)と人間

所感雑感
06 /23 2019
 私は、神(真理)の存在を否定できない。なぜなら、それが絶対に存在しないという根拠をどうしても見出せないからである。しかし、その一方で神(真理)の存在や在り様を追求することは我々人間にとっては無益であるとも考える。というのも我々の認知能力にはそれを知性、理性、または悟性と如何に名付けるにしろ、「ある種の意図的な鍵」によって限界が設定されているからである。
 人間の認知能力の限界を体感するのは容易である。例えば、今ある部屋からまずは家具を消そう。すると空っぽの部屋が残る。次に部屋を消し去ろう。すると家の残りの部分が残る。続いては、その家の残りの部分を消し去ろう。ならば大地と空が残る。今度は大地と空を消そう。そうすれば自分の周りには広大な宇宙空間が広がる。それでは次にその宇宙空間を消して後を想像してみよう。するとどうだろうか?幾多の星々を抱く宇宙までは想像することができた。ところがその宇宙を消そうとした刹那、真っ白か、真っ黒か、あるいは透明の空間があなたの周囲を覆っているだろう。では最後のその空間を消してみよう。はたしてその空間を消し去ることができるだろうか。おそらく、すべての人が、それ以上先に進むことができないはずである。つまり、人間の認知能力lは「空間」の概念を越えて完全なる無を想像することができないように(意図的に)設定されている。即ち、「空間」こそが人間の認知能力の限界なのである。私は、この限界は、何者かの意思によって意図的に設定されているように感じる。そしてその者とは、それをどう呼ぶかは別として神(真理)である。

 これまで、神(真理)の追究は、人間存在にとっての究極目的、あるいは最高学問として長らく君臨してきた。しかし、人間の認知能力に空間という鍵が(意図的に)掛けられているという事実を仮に肯定するならば、神(真理)の追究はもはや人間存在にとっての究極目的としての地位を追われてしまったというべきである。

 そして、「人間」であり「個人」を中心に据えて世界を見つめ直すことで世界を認識し構築し、各人なりの自己実現と幸福追求を果たすことが、神(真理)の追究に代わって究極目的の玉座に座したというべきである。国籍、人種、宗教、慣習、文化、あらゆる属性を越えて、我々は皆「人間存在である」という共通性を全ての基盤と成し、その上に個人の特殊性や性向を個性として打ち立てる、そのような観念の転回こそがいま求められていると言うべきである。

 繰り返しになるが、人間の認知能力に「空間」というある種の意図的な鍵が限界として掛けられている状態で神(真理)を追究することは無意味とは言わないが有意義でもない。そうであればこそ、神(真理)ではなく、ひとりひとりの人間存在の善き生き方の探求をこそ為すべきであろう。

 この発想は、様々な垣根を越えて世界全人類を平和的に緩やかに統合するための一つの処方箋となり得る可能性を秘めているのではないかと観念する。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。