地球環境の問題について

所感雑感
06 /22 2019
 地球にとってみれば、我々人類は手前勝手に有限の地球資源を貪り、使い尽くす最悪の害獣であろう。ほんの数百年前迄、我々の消費する資源量は種類・量ともにたかが知れており、地球環境それ自体を、人間を含めたあらゆる生命の維持を困難にする程の影響力を有してはおらず、個々の生存の保持とわずかな贅沢は地球全体にとってはそれほど過酷な負担ではなかった。

 しかし、産業革命以降様相は一変し、石油を汲み尽くし、森林を侵食しては居住地を拡大していき、大地の恵みたる農作物を片端から貪り続け、あまつさえ大量の産業廃棄物を遺棄し続けている。水資源もまた同様で、ごくわずかしか存在しない地球上の真水を巡って争い奪い合っている。地球規模で見たとき、人口が爆発的に増加の一途を辿っている今、経済的な実質的平等が仮に実現して70憶に迫る数の人々が欧米や日本の生活水準に到達すれば、おそらく地球資源は瞬く間に枯渇し、人類は人間存在の持続可能性に自ら止めを刺すことになるであろう。しかし、問題はこれだけにとどまるであろうか?
 というのも、軍事の面でも同じようなことが言えてしまうのだ。核兵器を手中に収めた今、人類は少なくとも破壊という領域においてはもはや神の域に達しており、かつてのように戦争を人口調節の手段として用いることは不可能になった。いわんや、核戦争は人口の減少を大きく踏み越えて、善事類にとって絶望的な絶滅を齎すからである。

 更に、科学技術(特に医療分野)の急速な発展により、生存率は著しく伸長し、人口爆発と高齢化という死の病を人類は抱え込むこととなった。しかし、核戦争はむろん論外として、その他の状況変化は人類の進化の軌跡であって、ただ一方的に害悪のみを齎すものではない。自然との共有を可能にし、「百年前にあった文化の多様性を有するには、せいぜい十億人ぐらいの人口がいい」(岡本裕一郎『いま世界の科学者が考えていること』282頁)とされるが70憶人に迫る人々をその七分の一に減少させることは到底不可能である。経済的な実質的平等が仮に実現したとしても、その達成されるべき経済の水準、即ち人々が消尽する地球資源の量を七十奥の人口を地球が支え切れる程度にまで抑制ないし後退させなければならない。ただ、一度贅沢と自由を手にした我々が本当にその享受する豊かさを手放して、飢餓、水不足、希少資源の確保等々山積するあらゆる諸問題を本当に解決しうるのかという疑問はいつまでも付きまとう。

 直ちに有効な解決策を提唱できないのは口惜しいが、教育による無知の克服、積極的な相互支援と扶助、科学技術の応用による水、食糧の確保といったことは今からでも着手が可能であるし、必ずや一定の効果を生むであろう。また、少なくとも民族的対立、純化や分断といったような事態は避ける努力をなすべきである。

 今の人類にとって、戦争や領土問題を巡る衝突に割く余裕は、エネルギー資源等を含め、あらゆる点でないのであり、各種資源や富を巡って戦争や武力紛争に訴えるというのは愚の骨頂である。そして何より、人類という種とその住処である地球の存続のためにこそ人々は手を携えて、共同でこれらの諸問題に対処することが肝要である。その意味でも、やはり全地球的な規模で諸問題に介入できる組織が求められる。

 各主権国家が、自国の利益を離れて「地球全体の利益を守るために解決すべき課題」として、今地球規模で生じている諸問題を捉え直す必要があるのであり、それを可能ならしめるのは民主的な過程を経て形成され、上位の権威として各主権国家の内政に公に干渉し、必要な調整を行うことのできる世界政府の樹立以外には考えられないであろう。

 そのためにも、まずは、国家、文化、宗教、人種等様々な相違を超えて、何よりも前に「自分は世界人類の一人である」という事柄を自己同一性(アイデンティティ)の中核に据えて共存のための互譲を実現することが肝要であると観念する。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。