暴力と生命

所感雑感
06 /22 2019
 動物は暴力、すなわち物理的あるいは筋力的な能力の強弱をもって雌雄を決する存在である。人間もまた動物である以上、究極的にはそうするであろうし、人類史を振り返れば事実それを繰り返してきた。

 しかし、人間と他の動物とは画然と区別される。なぜならば、人間は死すらも自律的に、時には利己的に選択する性質をもった唯一の動物であるからである。従って、人間は、暴力や構想、あるいは威嚇とは異なる方法で相互の衝突を回避すべき存在であるというべきである。
 個体同士が衝突するとき、それは究極的には生存を賭けて行われるものであるが、現代の人類は生存のほとんどすべてを経済力に依存している。ならば、人間相互の衝突はつまるところ経済力をめぐって行われるのである。多くの戦争が、環境や、鉱物・エネルギー・水資源といったような経済的利益を求めて引き起こされてきたことはもはや疑いなく、王位や皇位をめぐる戦争でさえ、その目的は勝利の後に自らの手中に収まる利権にあった。

 従って、我々人間に動物的側面が残存する限り、生存を賭けた経済力をめぐる衝突は不可避である。しかし、それを今もってなお暴力と威嚇によって解決していくというのでは、我々が「人間」という「特別な存在」である意味が失われる。我々は人間である。故に、他の動物とは異なる方法で衝突を回避し、解決する賢さを持たなければならない。現在ともよばれるその知恵は、そのためにこそ我々の内に存在しているのである。故に、知恵を駆使せよ。可能な限りの知恵を用いれば、経済、要するに貧富の格差をめぐる利害衝突の問題に必ずや永続的な終止符を打つことが可能となるはずである。

 私は、人間の可能性の可能性を信じる。それほど大きくかつ確かな可能性の獲得であったからこそ、かつて神はそれを原罪と断じたのであろう。これまでの歴史を経る中で、我々は数々の動物的側面を超克してきた。特に近代以降の科学技術の目覚ましい発展は時空の概念を大きく塗り替えてきた。そうであるならば、今後も今以上にその超克は続いていくであろうし、また続けていくべきである。もしそれができないのだとしたら、我々が単なる動物ではなく、「神の似姿たる人間」としてこの世に存在する意味がなくなってしまうであろう。

 それでは今、具体的に我々を取り巻く諸問題を新しく超克するためにどのようなことが考えられるであろうか?

 私は、その諸問題のひとつは国際社会の法的無秩序と民主的意思決定過程の欠缺であると考える。冷静に考えれば恐るべきことであるが、今の国際社会には自力救済の禁止という近現代国家内における最も基本的な原理原則すら実現していないのである。従って、まずは国際連合(以下、国連)に民主的(かつ実効的)な意思決定能力と国際平面の諸箇所が孕む秩序の未熟に対する介入の権限を委譲して、国際的な民主的意思決定を担保することの出来る仕組みを整えるべきである。国連の意思決定の機能麻痺の要因でもある5大国(米・露・英・仏・中)の拒否権の問題にも着手すべきだ。その上で、今は当然と認識されている国際平面上の自力救済の必要性を喪失させ、国際的な民主的意思決定によって整然と諸問題を法的に解決する仕組みを整えなければならない。そのためには、今の国際司法裁判所(以下、ICJ)に一層強固な管轄権と強制的な権威を付与し、応訴拒否は即敗訴の仕組みを取り入れねばならない。これは一見すると実現不可能なことのように思えるが、各国国内では既に当然のように実現している自力救済禁止の原則を国際平面の範囲にまで射程拡大しようというだけのことである。

 民主的意思決定を阻害する拒否権の仕組みがあることと、自衛権と言う名で公然と自力救済が認められている(というよりも自力救済以外に自衛の方法がない)ことが今の国連の最大の課題であると観念する。

 その一方で、これら2つの問題の解決に成功すれば、世界はもはや核戦力の分配における均衡等というかりそめの平和にすがる必要はなくなるであろう。我々人間は、今こそ本来の人間のあるべき姿に近づくよう歩みを進めるべきなのである。

 「人間は第3のチンパンジーである(ジャレド・ダイアモンド)」という見解や「戦争とはつまるところ異なる憲法観への挑戦である(長谷部 恭男)」という見解は、確かにその言わんとすることは十分すぎるほど理解できるが、さりとてこれらの見解に与することもまたできない。

 私は愚直にも人間の可能性を今なお確信しているからである。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。