9条に基づく平和主義とは何か?

憲法概論
05 /23 2019
 我が国は、他に例を見ない徹底した平和主義の下、国連中心の集団安全保障に依拠して、非武装中立による絶対的戦争放棄を国の根本文書である憲法をもって内外に宣言する、おそらく世界一の国家である。そしてその徹底した平和主義を支えているのが、言うまでもなく格調高き前文と9条であるというのは誤謬なき認識である。確かに、我が国はその思想信条の下で70余年平和と安全を維持してきたように思えてくる。

 しかし、その平和を日本が享受できたのは「9条(特に2項)を支柱とする日本国憲法の平和主義があったからだ」と考えることは短絡である。戦後70余年、我が国が平和と繁栄を享受できたのは、「9条があったから」ではなく、単に国際平面上における地政学上の偶然の帰結であったことを心に留めておかなければならないであろう。
 むろん、確かに9条の存在によって少なくとも第二次大戦のときのように、日本から侵略戦争(国際紛争を解決する手段としての戦争)を惹起することは避けられた。それは間違いなく9条の効用である。しかし、日本は国際平面上に存在する主権国家であり、水平方向にも垂直方向にも他国ないし他の勢力からの干渉を受けることのない自律性を有する。これが何を意味するかと言えば、主権国家が主権の独立性、最高性を有しており、それらを全体として統括する世界政府の存在しない現在にあっては、相手から理不尽な武力行使、ないし武力による威嚇を受ける可能性が残されるということである。更に、こうした主権国家における主権の特徴に着目するならば、各国憲法は当該国内においてのみその効力を有するのであって、他国には一切何らの影響をも及ぼさないことを知っておかなければならない。憲法が当該国の国内でしか通用しないということは、有体に言えば、「わが家はご近所と暴力を伴うようないさかいはしません」と庭先に高札を掲げておく程度の効果しかない。それと同様に、9条の効力は我が国内に局限される。従って、中露が暗黙に研ぎ澄ましつつある野心を本気で我が国に向けてくるような事態が実際に起こったときには、自衛権にさえ制限を加える9条が大きな足枷となるかもしれないという懸念は決して小さなものではない。こうした見解に立てば、9条を改正して自衛隊を憲法上の機関として位置付けるという発想は一定の説得力を有しているといえる。ただし、前述した庭先の高札の例に戻れば、「日米のいずれかに手を出すのであれば、相応の報復をしますよ」と吹聴するようなものであり、こうした趣旨のメッセージを憲法というわが国の最高法規をもって再現することが安全保障上の選択肢として、本当に最良であるのかどうかについては国民的な規模での真剣な討論が十分になされるべきである。

 「自衛権を宣言する」ということは、端的に「やられたらやり返す」という消極的ではあるが挑戦的な意図が含意されていることを忘れるべきではない。その点、我が国が第二次大戦から復興する際に選択した非武装中立という発想は、もはや世界のどの国も戦争に訴えて国際紛争を解決することはないという国際社会全体の含意への信認を基礎とするものである。そして、日米安保は国連による平和維持能力が正式に整うまでの間、万万が一日本が他国から侵略的攻撃を被ったときには、正規の国連軍の肩代わりとして、連合国を代表する形で暫時的に米国が日本を防衛することを約したものであり、それに必要な土地、資金、人材を提供するという意味では双務的な条約であるが、防衛という観点からすれば米国が一方的に義務を履行すべき片務的な取り決めであった。故に、戦後70年余年、自衛隊が米国への攻撃に対する集団的自衛権の行使は「できない」とされてきたのであった-第二次安倍政権はその禁忌に一定条件の下で触れてしまったが-。

 こうなった以上、自衛隊は米国の利益の為に生命をかける任務に就く必要が生じ、日本の為ではなく米国の為に大きな代償を支払うことになるのである。その恐ろしき帰趨を本当に考慮して安保関連法案の改正を成立させたのか、大きな疑問を禁じ得ない。「日米同盟の強化が極東地域における抑止力を一層高め、日本の安全はより堅実になる」と為政者は語るが、本気で国家間戦争からの日本防衛を考えるのであれば直ちに日米安保を破棄して、我が国独自に核武装してMAD(相互確証破壊)の枠組みに参加することが最善であるが、この発想がいかに愚かで、真の平和から程遠いものであるかということは、事理善悪の区別がつき始めたばかりの小児ですら容易に判断できることであろう。

 また、時に「日本は敗戦のせいで自国すら守れない骨抜きの国家に成り下がった」という嘆きを耳にすることがあるが、これもまた誤謬である。特に、「9条があるから日本を守るために必要な戦争すらできない」というのは大間違いであり、9条の有無にかかわらず、もはや表立って戦争を起こせる国や地域など、もはや地球上には存在しないのだということを知る必要があるだろう。国連憲章は、武力の行使も武力による威嚇も禁じており、唯一、合意された国際秩序に挑戦を試みる無法者に対する制裁としてのみ武力を行使し得ることを定めている。つまり、戦後の現代社会においては、国際社会においても戦争は悪であり原則全面禁止なのであって、我が国だけの専売特許というわけではない。だから「日本は軍隊を持てない半人前国家だ」というような趣旨の主張は全く荒唐無稽であり、耳を貸す余地すらないと断じてよかろう。ただ惜しむらくは、国際秩序に反する無法者に対する制裁について、5大国(米露英仏中)の利害関係衝突による緊張麻痺によって必要な制裁決定が難しいという点と、五大国の一部が覇権に向けた野心を秘密裏に抱いていることである。

 もし仮に、日本国憲法前文にあるように我が国が国際社会における名誉ある地位を得たいと本当に望むのであれば、それは日米同盟強化による極東地域の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の優位性を築くことなく非武装中立こそが世界平和への一条の光であることをその身をもって世界に示して見せることである。

 「それでも、もしどこかが攻めてきたらどうするのか?座して死を待つのが最善だというのか?」との懸念が存在することはよく理解できる。前述の通り日本国憲法の徹底平和主義が日本国外には何らの影響をも及ぼさないことを考慮に入れれば、確たる自衛手段を備えておきたいという主張は十分に理解できる。しかし、敢えて思い出してほしい。冷戦によって一挙に世界情勢は世界平和の実現から緊張へとその様相を転じたとはいえ、自衛装置すら持たずとも世界人類は統合でき、平和は実現できるという希望は確かに存在していた。だからこそ、当初は正規の国連軍以外の武力の行使を全面的に禁止したのである。ただ、相手がある以上、対立が懸念されるし、加えて新興小国は自力救済が困難を極めるという理由で不承不承に認められたのが集団的自衛権の行使である。従って、集団的自衛権と言う概念はそれがあることが「当然」なのではなく、例外中の例外であることをまず知る必要があろう。第二次安倍政権による安全保障関連法案の成立・改正により、我々は日本のみならず米国の利益の為にも自衛隊を用いることになった。

 更に悪いことには、今、憲法に自衛隊を明記して、挑戦を試みる相手に対しては牙をむく可能性があることを内外に示そうとしている。この動きは、かつて旧日本軍によるなんらかの影響を被った経験のある国々を戦慄させ警戒させるであろう。それは極東地域の更なる緊張を生みだし、不安定化させることしかせず、政府の説明とは真逆の方向に物事を進めることとなるであろう。

 しかし、我々には経験から学ぶという力がある。かの惨劇を二度と繰り返さないためにも、我々ひとりひとりがその知恵を絞り、正しい判断をするより外ない。戦後の日本人が獲得した叡智が決して脆弱な理想論に過ぎないものではないことを、身をもって世界に示すことこそが我々の役割であると思うのだ。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。