はじめに

ご挨拶
01 /10 2019
 日本国制憲後70年余り、ついに改憲が現実味を帯びてきました。

 与党は改憲に必要な議席数のほとんどを衆参の両院で既に確保し、最大野党の立憲民主党もまた、「立憲」とその名に冠しつつその内心に改憲の意思が見え隠れする現状においては、おそらくその是非とは無関係に憲法改正は実現するでしょう。なにより、現代を生きる我々は、戦後全世界的な視点で目指されてきた現代的諸価値の実現が遅々として進まない現状に疲れ果てています。
 しかし、それが人類の歩みにおける一過程に過ぎないとはいえ、全人類史的な進捗における正道というべきあり方を体現するわが憲法が、その意味も真価もわからないままに、予定される改元を足掛かりとした「新しい時代にふさわしい憲法を」をなどという暗愚な俗諺に誘導されて、されるがままに無残に蹂躙されていくのをただ傍観しているより外ないというのはあまりに忍びなく、もはやこの改憲の潮流を止めることは困難であるにしても、せめてわが憲法が、現代という人類史の一過程において抱いてきた意味と真価を書き残しておきたいと思料し、ここに筆を執りました。

 そもそも、憲法は国家の根本設計をなすものであり、近現代的な言い方をすれば国民と国家の社会契約なのですから、改元くらいのことで容易に変えるべき性質のものではありません。改元は確かに、日本民族にとっては新しい時代の象徴かもしれませんが、わが民族が民族独自の伝統風習に従って新しい時代を迎えるということと、擬制的であるとはいえ、人間存在に本質的に備わっているとして歴史的に発見され認知され受容されてきた諸価値を保障すべきことの必要性の是非を論じ、その保障の為に要請される権力との契約の内容を見直すべきであるかということは事柄の次元が全く別異です。昭和であれ、平成であれ、新しい時代であれ、自由・平等といった基本的人権は保障されるべきであり、その保障を確実にするために国家が義務を負うという構造は変わるものではないのです。

 逆に、今後より新しい価値が発見され、その価値に従う方が、現代的諸価値に従うよりも一層個人の可能性の発露と幸福追求に資し、中世が近代に、近代が現代に進展したように、社会を全世界的により善い段階へと止揚するに至ったのであれば、その時こそは躊躇うことなく雄々しく憲法を変えるべきでしょう。そのときは必ずしも改憲である必要はなく、場合によっては新たな制憲であってさえよいと思います。

 さりとて、私は、その実現が遅々として進まないとはいえども、現代という時代が目指した価値、すなわち「個人の尊重を要として、人類が多様な価値観を受容しながらも社会として一体的に融和することをもって、遍く恐怖と欠乏を取り去る」ということの意味と真価を確信しています。これ以上のものが発見されるまで、わが憲法が翳ることはないでしょう。確かに、現実には、個人の尊重と多様性の受容のみが強調されて空転し、かえって異質に対する不寛容と社会の分断を深刻化する、いわゆる価値相対主義という名の病気をより重篤にしているだけのように見えますが、しかしそれはあくまでも現代という時代の特質の半面であり、残る半面が正しく認識され、日々の生活において意識されれば、均衡と調和は必ずや取り戻されます。

 ただ、悪いことは、このような閉塞感とともに、国際的な責任と権力を有しながらも野心にとりつかれた一部国家が、実力をも含むその力を行使して、自国に有利な現状変更を露骨に企て、かつ明示的にも黙示的にもその実行に着手している状況があることです。このような者が国際社会における重要な決定権を掌握している事実をこそ憂い、その改善に向かう声こそ上がるべきだと考えますが、なぜかそのような着想はなかなか得難く、当該閉塞感と外的脅威に対する不平不満が専ら憲法にしか向かわないことは不幸というより外に言葉を持ちません。野心を抱く者は、国際的な特殊的地位からは降りるべきと主張すべきです。

 ことほど左様に、内には価値相対主義による社会的紐帯の脆弱化、外には野心と権力を併せ持つ不埒者による脅威という二重の苦難を抱える今のわが国において、何か抜本的な方法によって劇的な革新的変化をもたらしたいという希望が生じることは理解できます。また、この閉塞感と不安感は、わが国の人々が遍く恐怖と欠乏を免れて自由に幸福を追求することを保障するためにも、早急に除かれるべき要素であることもまた確かです。肝要なことは、その方法ないし視点を向けるべき矛先を誤らないことでしょう。

 わが日本国憲法は、まさにこの点については十全の規定を置いています。それによれば、国は、国民のため、外交的に努力して存亡の危機を免れる義務を負い、その義務はすべて国民が基本的人権を全うし、自由な幸福追求を実現するために果たされるべきであると約されているのです。ただ、その方法において、わが憲法を特徴づける徹底した平和主義が、果たして本当その理念通りに実効的に作用するのかについては懐疑的にならざるを得ないという問題は残るでしょう。これについては日を改めてお話しします。

 いずれにせよ、わが憲法の諸規定は、「自由かつ平等で、個人は尊重され人間らしい生活が保障される社会が望ましい社会である」という認識に基づいて、そのような国家の実現を権力の責務とすることを約束するものですから、こうした社会が望ましいという前提が覆らない限り、手を入れるべきではありません。しかし、こうした社会でない社会とは、あえて表現するならば、「不自由かつ不平等で、個人は軽視され人間らしく生きることは望めない社会」ということになりますが、そうした社会で個人の可能性や幸福を追求することは、不可能ではないにしても相当困難であることは火を見るよりも明らかです。

 その意味で、わが憲法は、今なお確固たる意味と真価を失ってはいません。人類が、現代を超えてその先の段階に止揚するまで、それらが衰えることは決してないのです。いたずらに弄んでみたところで、有益なものは何一つ生み出されはしないでしょう。

 憲法は、時代の象徴などという軽薄なものではありません。人類史上のある段階において、人々は如何なる価値を善しとし、それらの諸価値を実現するために国家権力はどう構築され、何をなすべきであるのか、それが記されるべき歴史的な存在です。まさに、人類史上の大局において締結される国民と国家の社会契約なのであり、それは相当期間普遍のものとして持続的に維持されるべき性質のものです。その意味で、70余年というのは、決して長すぎる時間ではありませんし、そもそも悲しいことに、契約を更改すべき新しい段階には、われら人類はいまだ到達できてはいないのです。今という時はむしろ、これまで以上に自由、平等、個人の尊重、人間らしい生活の保障という現代的諸価値の、本当の意味での実現にこそ一層注力して、現代という時代が抱える諸課題の解決に向かうべき時であると考えます。

 このような時節に臨み、わが憲法の、というよりも、現代という時代が実現を目指してきた諸価値の意味と真価が、正しく認識されることを切に祈っています。
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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。