自由と民主性に関する考察

憲法概論
07 /19 2019
 個人に属する自由は内心に留まる限り絶対不可侵かつ完全に秘密であり、自己および自己の所属する国家の在り方を最終的に決定する権威ないし力を備えたものである。
 他人と(ゲゼルシャフトな関係であれ、ゲマインシャフトな関係であれ)社会的関係を取り結び、内心に関する他人からの干渉をどこまで許容するかについても自由意思による決定に委ねられる。しかし、個々人が社会的関係を取り結ぶ際に、双方が剥き身の自由を主張すれば、相互の自由は衝突し、最悪の場合傷害や殺人へと帰結することさえあり得る。従って、個々人が平穏かつ安寧に社会的関係を取り結ぶためには、内心の自由の一部を自らの意思でもってより善き方向へと統御する必要がある。ここでは、それをカントの格率に倣って自由率と名付けることにしよう。そして、その自由率に依拠して相互の自由を自律的に善き方向へと統御することによって、個々人は良好な関係を維持することが可能になるのである。

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普通選挙制は真に民主性に貢献するか―緩やかな制限選挙の可能性―

憲法概論
07 /18 2019
 普通選挙制は民主主義の成熟と充実に真に資するであろうか?あるいは、普通選挙法によって多様な世論が議会(国会)に反映され、あらゆる階級の利益は等しく吸収・反映されていか?ともし問われたならば、私は直ちに「それは真である」と応答することに躊躇いを覚える。民主主義はいうまでもなく、多種多様かつ多元的な民意を議席配分という形態に再構成し、そうして構成された議会での討論を経て少数意見に配慮しつつも、主権者たる国民(有権者)の多数意見に対して一般意思という輪郭を与える制度である。

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自由意思の閉鎖性と経済活動との関連性

所感雑感
07 /18 2019
 我々人存在は、それが内心にとどまる限り如何なることを考えていようと完全に自由であり、自らの意思で表出しない限り―暗黙の予測として悟られることはあるにしても―その内心を他者に知られることはない。つまり、人間存在は、互いに相手の思考や印象を明瞭には確知できないままに相互的に意思疎通を行わなければならないということである。さらに、一層事を難しくするのは、言葉や表情による意思疎通の仕方は、必ずしもその言葉通り、あるいは表情通りではないことがしばしばであり、かつ、当該相違点を―予測的にではあるが―見透かされる場合があり得ることである。更に、自由市場経済を基礎とする競争社会においては、ある程度の駆け引きは必要やむを得ず、ある意味で、意思疎通が率直でないことの方が良い場合にしばしば直面する。

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労働と報酬の不均衡について

所感雑感
07 /16 2019
 近時、有効求人倍率の推移が堅調であり、我が国の経済は着実に回復しつつあると政府は高らかに胸を張る。確かに、一時期と比較すれば、求人広告の数は増え、また一枚の求人広告に掲載される求人情報の量も多くなっている。それは、疑いようのない事実であるが、その求人広告の内容を見るや、愕然とせざるを得ない。
 なぜなら、その多くがワーキングプア水準かそれ以下の賃金水準でしかなく、とても家庭を持ち、ゆとりをもって子育てをしているだけの金額には遠く及ばないからである。看護師等の高度な訓練や資格を要する、所謂テクノクラートに分類される職種でさえ、同様なのだ。全国民の平均年収が400万程度というのは、いったいどこの国の話なのであろうか?

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自由の享受と共存

憲法概論
07 /15 2019
 自由の享受と共存の難しさ、即ち個人間の自由の衝突の問題は極めて解決困難な問題ではあるが、我が国では「公共の福祉」がその一応の答えとなる。だが、果たして何をもってどこまでを公共の福祉の射程と見做すのかというと、判然としない。
 人は個人を中心に、同心円状に拡大する社会に属する。その同心円は、中心から外周に向かって、個人、家庭、地域社会、地方公共団体、主権国家、国際平面と段階的に展開していく。
 その円の半径の大きさに比例して、交際する人々の数は自ずと大きくなり、その分自由が衝突する蓋然性は高くなる。加えて、中心から外周に向かうにつれて、個々人間の関係性の密度は疎になるとともに、多様な価値観を持つ人々と邂逅する機会が増えるが、関係性が希薄になるということは相手の行為に対する許容度が低下することを意味する。例えば、自分の子ども(距離が近い者)の行為であれば許せることが、他人の子ども(距離が遠い者)の行為は許せないということがあり得るであろう。即ち、人間がより多くの人々と自由の互譲を実現するためには、「意識的に」人間であるという同胞観を共有する必要があるのである。

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法と自由意思及び社会契約

憲法概論
07 /15 2019
 「なぜ法に従うべき義務があるのか」と問われたならば、何と答えるのが適当であろうか。法、特に刑法においては国家っ権力による強力な強制力があるために―最も民事法であっても強行法規はあるが―、その違背に対する罰則を回避するために法に従うのだという回答があり得るかもしれない。しかし、思い返してみれば、少なくとも現代的社会における我々人間存在は個々人の水準において自らの人生の選択に関する相応に広範な自由を有しており、刑法に抵触するような人倫に反する行為について罰せられる場合は格別、義務教育を受けるか否かや、賃貸借や売買などの民事的な事項については、個人がどう振る舞い、どのような決断をするかは当該個人の自由に選択すればよいのであって、国家権力の定める法の介入を許すいわれはない。いわゆる経済的規制の法的強制の問題である。しかし、実際の法の運用においては、個人の広範な自由が是認されるべき民事や家事においても一定の仕方を命ずる強行法規は存在する。では、我々はなぜ、それらについても服従と遵法を強いられるのであろうか。

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価値相対主義とどう向き合うか

所感雑感
07 /12 2019
 過度に人の合理性と普遍性を重視し過ぎるあまりに、個人に属する特殊性を捨象して、機会の平等を優先した結果、かえって大きな不平等へと陥ってしまったことが近代の失敗であり病理であったのと同様、逆に個人の特殊性に注目しすぎ、その個性を尊重しすぎた結果、社会的存在として何が正しく、何が誤っているのか、あらゆる善悪好嫌の基準が相対化してしまった価値相対主義は現代の失敗であり病理であると言えよう。しかし、価値相対主義それ自体が悪なのではない。絶対的尺度によって、多様な価値観とそれに対する偏見を生み出すことなく、個性を備えた個人が、社会的に理解され受容されるよう試みることは、少数者(マイノリティ)に社会における居場所を提供し、尊厳を与えるものだからである。その意味に於いて価値相対主義は極めて有意義な思考形態であると言える。

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第三の自由

憲法概論
07 /08 2019
 近代市民法において義務の根拠となるのは、当該行いが自由意思の発露の結果だからである。簡単に言えば、自分で考えて決めてした意思表示なのだから、その結果は自ら引き受けよということである。しかし、意思表示によって権利・義務関係が確立するためには、意思が形成され発露されるまでの過程に瑕疵があってはならない。すなわち、意思形成の段階において、その意思表示が齎すであろう将来的な結果の蓋然性(そのように判断すると、どのような結果になると予測される可能性が高いか)についての見通しが立っていなければ、真の意味で自律的に自由に選択的な意思表示をしたとは言えない。ところが、我々の生きる世界では、将来を確実に見通すことは不可能である。つまり将来の不確実性に関して我々は絶対的に不自由なのだ。

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共通の敵を持つことの意味

国際法
07 /08 2019
 人類とは本当に悲しく浅薄な生き物だと思う。共通の敵があるときには、その敵に対応するために団結するが、ひとたびその敵を排除してしまうと今度は身内同士で争うことになる。平和である為になんらかの対立を内包していなければならないというのは何とも表現し難い皮肉である。9.11を期にテロとの戦いが本格化したとき、5大国の足並みは完全にではないにせよ、少なくとも表向きは対テロ、テロリズムからの国際秩序の防衛と回復で一致していたが、タリバン政権が崩壊し、テロリストとの間における緊張が緩和をみせた途端、日米、独仏、中露北は各々の結束を強め、英国は独自路線を選択し、国際社会全体としての調和の紐帯はむしろ弱体化した。本来であれば、イスラム原理主義に基づくテロリズムをほぼ一掃した今こそ、民主主義、自由主義、そして善い意味での価値相対主義によって世界がグローバリズムの完成によって世界人類としてまとまるべきはずであろうに、むしろ現在はその反対で、価値観の比較的共通するもの同士の紐帯はより強固に、異なる価値観を持つ者同士は距離を取るようになった。世界中で純化と分断が進んでいる。

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国際的な相互依存が深化する中での世界平和構想

国際法
07 /03 2019
 国際平和の実現などというといかにも気宇壮大な感があり、一般的な価値観や考え方とは別異の理論構造に依拠しなければ到底成立しえないような錯覚を覚えるが、国際社会といえども、行為主体が、人民から国家へとその規模を拡大するだけであって、結局のところ、相互に交流し、腹の探り合いをしながらお互いの利害得失を皮算用している所謂世間であり、それ程特別なものというわけではない。

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放縦と経験、格率と自由率

所感雑感
07 /02 2019
 経験は人生における諸所の選択場面において教訓的作用を齎し、それに基づけばより善い判断の基準となることがあり得るが、経験さえあれば、常により正しくより善い選択を為し得るという保障はない。経験者が少なくなったから歴史が受け継がれなくなる、確かにそうした側面を否定はしないが、経験が必然的に人に過ちを避けさせ、正しい選択を為さしめるわけではないことを知っておく必要があろう。

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このブログを書き綴るのは

ご挨拶
07 /02 2019
 「今、世界、すなわち国際社会はどのような潮流に押し流されているのだろうか?」と問われたならば、果たして何と応答するのが正解であろう。私には、遠くかすかにではあるが第三次世界大戦の足音が聞こえる気がする。新自由主義が国境を越えて死の種を撒き散らし、グローバリズムの波が国境を低くしたことでその種は世界中のありとあらゆる場所に格差を芽生えさせ、疑心と不安が人々を覆うとともに、本来世界平和に最も寄与すべき一部の者共が覇権に向かう野心を隠さない「今」という時代を我々はどう生き、21世紀を如何に仕上げて、22世紀へと繋ぐことが最善であるのか。そのための処方を編み出すべく試みることが本ブログの目的である。

選択と責任に係る考察

憲法概論
07 /01 2019
 「いかに行動するか、最後は個々人が自分で考え、自分で判断するしかない。生きるということはそういうことである(長谷部恭男『日本国憲法』解説)」と長谷部先生は仰るが本当にそうであろうか?
 自由な意思の発露の機会を保障することは確かに根源的な事柄であり、それ自体は大いに首肯されるべきである。他方、真に自律的で自由な選択であると言い得る為には、選択の結果についての大凡の蓋然性に関する予測が成り立つ場合に限られよう。例えば、何を食べるかを選ぶとき、どれがどのような味で、どう自分の腹を満たすかに関する予測が十分に立つからこそ選択できるのであり、選択の結果を見通すことのできない選択は危うくてできないし、そのような不安定な選択にまで選択結果に対する義務を負わせることは妥当であるとは評し難い。

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椎央権太

日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。