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自由と平等(試考)

 自由というこ言葉は多義的であり、英語も主にfreedomとlibertyが使い分けられる。前者は「選択の自由・自律的選択」という意味が強く、後者は「束縛からの自由」の意味が強い。

 わが国では、バーリンの自由論の影響力を強く受けたせいか、或いは、第二次大戦中の国家っ権力による容易に言葉にし難い人権制限に対する反省の点からか、自由といえばleverty、即ち国家権力からの不当圧力による束縛の自由を把捉する傾向があるように思える。しかし、自由とは本来、与えられた生命を全うする中で自己実現をするためのものであるのだから、自分の人生の選択を自律的に自由に決定するfreedomの意味の自由と、その決定に際して権力的な妨害・抑制を受けないというlevertyの意味の自由の両方の意味を備えていると解するのが相当であろう。無論、放任や無秩序とは全く異なる概念であり、それらは混沌であって自由ではない。

 そして、近現代社会ではこうした自由をすべての人が等しく、つまり平等に有しているとされる。近代においては、自由選択の機会のみ保障されれば、その結果についてはすべて自己責任に帰せらせ、それは中世の比較的安定的であった時期以上の不平等と格差を生み出した。その反省として、現代社会では、個々人の特殊性や多様性を理解した上で、その差異を互譲によって補充することで、機会のみならず実質、すなわち結果の自由までもが求められるようになってきた。

 しかし、自由と平等の関係性ということに目をやるとその難しさに気付く。なぜならば、(あくまで放任でなく自律的な)自由ばかりを追求するならば、それは他己の自由との衝突を生じて平等が害され、反対に、平等を重視してすべてを平等の名のもとに制限的に管理するようになれば、今度は自由が制限される。こう考えると、自由と平等は定立と判定率の関係にあるように見えてくる。だが、そうだとすれば弁証法的に自由と平等を止揚することができるのではあるまいか?

 人間が社会的営みを続ける限り、内心の絶対的自由は除くいて対的自由は存在しないし、完全な平等や公正の実現などはどこまでいっても幻想の域を出ない。かつてアリストテレスは、中庸の徳こそがアレテー(卓越)であると説いたが、自由と平等の関係には、まさにこの中庸の徳が当て嵌まるように思う。

 自由は、たとえそれが自律的な者であっても、他己の自律性や自由を阻害するわけではないし(内在的制約説)、人間らしくあろうという意思と努力の欠缺する者にまで、何らかの事由によりそれが不可能であるなどの格段の事由のない限り、平等や公正を保障する必要なない。

 「人には平等に自由が保障されている」「尊厳と権利において平等である」と言ってみることは簡単である。しかし、この自由と平等の間に横臥する問題は容易く片づけられるものではない。

 まず、善悪に絶対性があるのか、そのことを明らかにしなければならないだろう。仮に絶対的な善悪の存在が明らかになれば、当該善をなす自由は平等でにあたえられるよう勧善されるべきであり、絶対的悪をなすことについては自由もなければ平等性もなく当然戒められるべきだと言えるからである。果たして、絶対的な善悪観とは、宗教上のそれは別として、本当に存在するのであろうか?それとも、多様性という相対的価値の中に埋没した状態で千変万化するものなのであろうか?

 次の機会にはそのことについて考えてみたいと思う。
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自由論試考

 私は、法理学や法哲学を専攻したわけではなく、実務法学を主として学んだにすぎない者なので、かような者が自由論を論じることには大層気が引けるが、実質的平等の実現を真剣に考えるのであれば、自由論は避けては通れない道であり、分不相応は承知の上で自由論について試行することにした。

 まず、自由とは何か?と問われたら、それに答えることは容易ではない。ただ、「自由とは束縛されないことだ」とはいうことができるかもしれない。では、その「束縛」とは何であるのか?すなわち、何からの自由なのか?

 これについて、わが国の法律学の世界ではバーリンの自由論の影響が強いためか、自由といえば「権力からの自由」という認識を持たれることが多いが、しかし、自由とは、必ずしも個人の人生上の選択に対する国家権力による(概ね不当な、あるいは不合理な)介入からの自由だけを意味するわけではない。

 確かに、自由には2つあり、その一つはたしかにバーリンの自由論が語るように権力や権威などの枠組みからの自由であるが、それに加えてもう一つ、自然法則からの自由ということがある。自然法則からの自由(反対に言えば自然法則による制限)とは、要するに、何の備えもないままに十分な高さのある崖から飛び降りたら死ぬという意味であり、人間が自然法則から逃れることの困難さを表現するものである。権力も自然も、いずれも、結局にして人間の「自由な」選択に一定の制限あるいは制裁を加えるので、その性質の共通性からこれらを「二重の自然」と呼ぶことがある。

 実は、近代もしくは現代の希望をより強調するために、中世という時代やそれを象徴する絶対王政的封建社会は過激に暗黒であったように語られるが実はそうではない。中世以前は、前述の二重の自然の枠の中にとどまって、無謀その枠から飛び出ようとしない限り、人生の安寧は保障されていた。その意味で、中世的封建社会は、近現代において語られるほど暗黒ではなかった。

 しかし前近代(最近は世界史でも、この時期を近世と称するのが何とも面白いが)にあって、産業革命を成し遂げた我々市民は、獲得した莫大な資金力を背景にこれら二重の自然の内、世俗権力を排除して自らが主権者となる権利を獲得した。つまり、二重の自然の内の一つの枠を打ち破り、特に国家の設営と運営という点における自律性を勝ち取ったのである。それは人類史上、極めて劇的な出来事であったので、「自由とは国家権力の(不当な)介入からの解放をいう」という認識が強く印象に残るのであろう。確かに、我々市民は、市民革命または2度の大戦後の民主化を経て権力からの自由を獲得したが、しかし今なおもう一方の自然(便宜上、今後これを天然の自然と呼ぶことにする)の枠からは完全には出られていない。

 確かに、科学技術の驚異的な発展・発達により、交通能力は飛躍的に向上し、情報交換能力に至ってはもはや時間的制限すらないように思えるほどの高速化を実現し、地球という物理的時空は極めて狭小化した。医療面での発達も目覚ましく、おそらくそう遠くない将来、我々は欠損した身体を修復し、不治の病から回復し、更には親の望む遺伝的要因を備えた子の出産すら実現するであろう。しかし、それでもなお、我々は、権力から自由であるように、天然の自然から自由であるわけではない。死を克服することはできず、与えられた時間は有限であるからだ。そして我々はその有限の時間を労働に費やすことによって生存を維持しなければならないのであり、従って時間の使用については実に不自由なのである。

 もっとも、飛行機は我々に大空の旅を可能にし、船舶は偉大な地理的発展をもたらしたし、情報技術は伝達だけに限って言えば、もはや時空を超越した。しかし、それでもなお地震予知は確実ではなしい、台風、大雨、大雪といった自然的驚異から完全に逃れることはできていない。結局、天然の自然からは不自由なのだ。権力から自由であることが、天然の自然からの自由を保障してくれるわけではないことをまずは知る必要があるだろう。

 ところで、私は更に、我々にはもう一つの不自由があるように思う。それは将来の不確実性の不自由である。我々は過去から学ぶことはできるが、将来については推測し、予測することはできても、選択に先立って当該選択の結果を知ることはできない。権力からの自由は既に獲得したし、天然の自然については、飛行機が雲の上の景色を見せてくれたように科学・医術の進歩が解放へと導いてくれるかもしれない。昨今、特に医療分野においては、容易に信じられないような快挙が続いている。いずれは若返りや死からの解放さえあり得るかもしれないような勢いさえ感じる。 しかし、それでもなお、選択結果については不自由なままである。果たして我々は選択結果の不自由から解放され、結果についての自由を獲得することはできるのであろうか?

 私は、この「選択結果からの自由」という事柄こそ、実質的平等を実現するための鍵であるとみている。なぜならば、我々の人生は選択の連続であり、ごく些細なことから生死を左右するような事柄まで、あらゆるとき、あらゆる場面で選択を迫られる。その意味で、人生とはまさに選択結果の蓄積である。

 問題は、我々のする選択が常に正しい(選択者にとっての利益になる)わけではないことである。一般的には、まずい選択をして後から後悔するという方が多いのではないだろうか。しかし、その選択の結果の責任は、近現代社会においてはすべて「自己責任」という形で選択者本人に帰せられるのである。「自由意思の発露であるが故に、その意思表示の結果に拘束される」というのが近代市民法の大原則であるからだ。しかし、この理論は、あらゆる場面で無差別的に適用されてよいのであろうか?詐欺・強迫により意思表示に瑕疵がある場合は無論だが、そうでない場合、つまりまったく自由に意思表示が可能である場合でも、選択を誤ることがある。なぜなら、選択の結果を選択の時点で知ることができないからだ。

 では、選択結果を確定的に知ることのできない状態でされた意思表示は、本当に「自由意思の発露」ということができるのであろうか?私はこのことに強い疑問を感じる。

 国家制度が非民主的で、選択の自由すらないというのは論外であるが、民主的で自由意思が尊重されるわが国のような国家にあってもこの問題は残る。進学の選択、就職の選択、結婚の選択、家族形成の選択、転職の選択、人生において我々は実に様々の選択を絶えず迫られ、その結果がどうなるのかについて確定的なことを認知できないまま予測のみに頼って選択をなすことになる。そしてその結果の責任は、すべて「自己責任」の一言で片づけられてしまう。しかしながら、選択を誤ったことに対する責任は本当に「自己責任」とすべきなのであろうか。「判らない」とうことは効果意思形成に影響を及ぼす重要な要素であると考えるが、そうであるならば、結果が判らないで為した意思表示については何らかの父権的な助力が与えられるべきではないだろうか?

 ここまでを整理すると、次のようになろう。

 我々には自由がある。自由とは制約を受けないこと、つまり自律的に選択をなし得ることである。そして、我々の自由を抑制するものとして、権力、天然、将来の不確実性の3つがある。権力からの自由については市民革命によって既に獲得され、天然からの自由は科学技術の進展により漸次的に保障され得るだろう。しかし、将来の不確実性からの自由についてはほとんど方策がないのが事実である。保険は確かにこの問題について一定の解決策を提供するが、あらゆる選択が失敗して資力的に限界線をこえているような状況で保険に助けを求めることはできない。やはり、将来の不確実性の檻から我々が自由になることは、容易ではないのだ。他方、この自由を獲得すれば我々は人類史の段階を一歩進めることができるように思う。

 それでは、具体的な方策としてどのようなことが考えられるか。まず思いつくのは、福祉国家的な公的扶助により選択を誤って困窮したものを救うことである。ただこれには政府の資力的余力という要素次第であるので、こればかりに依拠することはできないし、更に、国家はこの負担を回避して成長戦略なり安全保障なりに資力を振り向けようとする傾向が強い現在においては望むべくもない。

 思うに、この将来の不確実性からの自由を実現する方法は、実質的平等を実現することであろう。蓋し、実質的平等が実現すれば、選択を誤り困窮したとしても、その困窮は社会的に補充され再起を期す機会が与えられるからである。結局的に公的扶助と同じことを言っているように見えるかもしれないが、そうではない。市場経済における競争社会では必ず過剰な利益を得る者が出現し、他方で困窮極まる者が存在する。ならば、あまりに過剰な利益を徴収し、一定水準を下回る部分に補充することはできないものかと考えたいのである。既存の制度を例にとるなら、累進課税を徹底させる等がそれにあたるであろう。要するに、上下に伸び切った貧富の差について、上を切り取って下にあてがい、中間部を厚くできる仕組みを考えたいのである。

 確かに、利益を得る者は、自らの才覚を活かし、あるいは生涯を賭ける思いで事業に注力してきたその結果なのであるから、自らが生み出した付加価値を自分のものとするのは当然である。しかし、考えるべきは「競争」の性質である。「競争それ自体は悪ではない:Competition is not evil itself.」と言われるように、市場経済における競争は必須であり、それは善悪理非を問うような事柄ではない。ただし、競争という要素は、勝利と敗北という構造と不可分一体であり、圧倒的大多数の敗者と、極小数の勝者というピラミッド構造をとることはもはや語る必要らあるまい。肝心なことは、「敗者なくして勝者無し」ということである。勝者が存在できるのは、圧倒的大多数が敗北してくれたからなのだ。つまり、敗北は競争という必須原理から切離不能な要素だということである。従って、勝者が全てを得、敗者は搾取されるという構造は誤りであり、是正されるべきと考える。無論、努力は必要である。努力なく無思慮な選択をした結果が望むもではなかったというのは、文字通り自己責任である。しかし、努力し、辛酸をなめ続けたにも関わらず、敗北を喫するような者を救済しないのは、まさに人権の侵害であり、社会契約を通じて国民の基本的人権を保障することを最優先任務とする国家の怠慢と言わねばなるまい。機会の平等、すなわち自立的な選択の自由を平等に付与するだけでは不十分である。生きる意思を持ち、当該人にできる限りの力を尽くして選択をしたのである限り、選択結果の良悪とは別にその意思と努力の過程が報われる義務を国家は負うべきであると考える。

 すべての人が、(無論、積極的生きようとする、ないしは進んで社会的関係を維持しようとする意思は求められるが)選択の如何に関わらず基礎的生活は保障され、成功を収めたものにはその基礎的生活分を賄ってなお残った余剰部分から、成功の程度に応じて相応の褒章を与えればよいのではないかと考える。

 標準的な人間ひとりが生涯に要する費用に人口を乗じ(基礎的生活分)、その値を国民総生産から引いて余剰を求め、その余剰を成功度や負担義務の多寡に応じて案分比例するような仕組みをとることはできないものであろうか。

 引き続き、自由と平等について考えていきたいと思う。

職種と賃金格差に関する試考

 「職業に貴賤はない」と言われながらも、実際には職種によって得られる賃金に相応の開きがあることは周知の事実である。故に、人は少しでも条件の良い職を探し、あるいは安定した身分と賃金が保障される公務員のような仕事に就こうとする。

 しかし、職種による賃金格差が貧富を決定づける現在の経済構造は果たして本当に手放しに是認できるものなのであろうか。いわゆる勝ち組的職種に就職できれば富を得、反対に負け組的職種に就くならば貧困に陥るしかないという事態ははさも当然の切離であるかのように認識されているが、大いなる疑問を禁じ得ない。加えて、負け組から勝ち組に転身できる可能性が皆無に近いこともまた切なさを誘う事実であろう。そもそも、いかなる職業であれ、その職業が社会に存在するということは、その職業ないし職種がその社会全体の機能維持のために必要的であるからである。なぜなら、不必要な職種は競争原理によって淘汰されその存在を失うはずであるからである。従って、経済的分配、すなわち職業労働者に対する報酬は、その職種が生む経済的効果の多寡とは切離して、別の観点から支払われるべきであるように思う。

 例えば、現在の日本では農林水産業等第一次産業に従事する場合、よほどの幸運に恵まれるか、稀有なアイデアを実現できない限り、典型的に事業をこなすことのみによっていわゆる大金持ちとなることはほとんど不可能に近い。ごく最近では、第二次産業の場合でさえ、その雇用形態の如何(正社員か派遣か)によって生涯賃金に大きな格差を生じることが知られるようになった。このように、従事する職種ないしは従事の形態によって一定水準以上の経済力を獲得する機会を構造的に奪われるというのは、社会構造的の(しかも、優れて人為的かつ恣意的な)不平等であり、現代社会の欠陥であるように思える。特に、第一次産業は、生産によって生じる付加価値がの点で、他の産業によりも比較的小さくなりがちな構造を持つが、人間の社会的営みにおいて根源的に必要不可欠な要素を提供する産業であり、その意味では死活的に重要な職種であるということができる。これに対して、生み出す付加価値が大きくないという事由に基づいて、一定以下の水準の収入に甘んじながら仕事を続けざるを得ず、裕福になる機会をほぼ絶対的に奪われるというのは極めて首肯し難いことである。

 そもそも、労働とは、人間にとって最もかけがえのない「与えられた寿命の一部」を売り渡すことであり、賃金とはそれに対する対価である。故に、いかなる業種であれ、労働に従事している以上、その生み出す経済的利潤や付加価値の多寡の如何とは切離して、生存と労働の継続が可能なだけの対価が支払われるべきであると考える。朝から晩まで労働基準法の定める許容労働時間をはるかに超えてパート・アルバイトをこなし、あるいは夜勤のある介護労働に従事しながら、一般的な家族を形成することすら困難な程度の低賃金しか与えられない状況は早急に改善されるべきである。市場における競争原理とは、労働者のみに課せられるものではなく、企業経営者にもまた等しく影響を及ぼすものでなければならない。自社で業務に従事する従業員に、労働基準法の定めに従う待遇を提供できない企業は、まさに競争力を欠いた不良企業であり、まして補助金にぶら下がることでかろうじて生き延びているような企業はもはや生ける屍であって、競争原理に従って速やかに事業を清算し、不動産や生産手段、そして人的資源を市場に還流して、市場経済の新陳代謝促進に貢献すべきである。

 市場経済の厳しさが語られることは多いが、それは労働者にとっての厳しさについてが大部分であり、会社経営者に対してその厳しさが語られる機会が極めて稀であることを率直に憂いている。資本家(会社)と労働者は支配者と被支配者の関係ではない。確かに、指揮命令という点における立場の違いはある。しかしそれはあくまでも立場上の差異であって、地位の区別ではないのだ。このことを、経営者も労働者もよく認識しておく必要があるように思う。少なくとも建前としては、資本家と労働者は、立場こそ違えど地位は同等であり、相互の協働によって仕事をこなして利潤を生み、ひいては社会全体の運営と成長に貢献するのが望ましい姿である。特にわが国では、労働者の側にその認識が欠落が顕著である。自己犠牲的に会社に尽くすことが美徳であるように考えたり、あるいは不当低賃金でも職がないよりはましと口を閉ざして甘受している者があまりにも多いように感じられることは残念の極みであり、更に悪いことには、経営陣もまたそれは日本的な労働のあり方であり、現代においてさえ、ある意味当然のように思ってそれを強いているきらいがあり、危機的ですらある。要するに、資本家と労働者の間に極めて望ましからざる暗黙の共通認識が出来上がっており、労働の場面において人権を無意識に抑圧し、またそれを受容する旧弊があるというわけだ。

 繰り返しになるが、経営者(資本家・会社)と労働者は、立場は違えど、地位は同等である。経営者にいかに資金力があり、優れた生産設備を所有しているとしても、それらを用いて製品やサービスを生産・提供して利潤を生みだす労働者が存在しなければ、あらゆる生産資源をを無駄に腐敗させるだけだということを知るべきであろう。労働力を提供する労働者こそが、資本家の用意した生産と利潤発生の契機を実現しているのであり、結局のところ労働者無しでは利潤の追求は不可能に近いのである。

 日に8時間、週40時間以上労働者を働かせて、当該労働者が(結婚をし、子どもを2~3人持つような)一般的な家庭を築くことができるだけの賃金を支払うことが難しいのであれば、それはその企業に市場における価値が十分にないということであり、速やかに事業を清算して廃業し、物的および人的資源を市場に還流すべきである。間違っても、補助金にすがって彷徨う支社のように市場の残滓となって、労働者を飼い殺しにすべきではない。人は有限で貴重な資源であると同時に、労働力とは、その人のかけがえのない人生の一部を労働時間という形で提供しているのだということを努々忘れてはならないのである。

 わが国のような先進国は、幸いにして絶対的に資力がないわけではない。中国に抜かれたとはいえ、世界第3位のGDPを誇り、国民ひとり当たりのGDPで見れば中国など足元にも及ばないほど高い数値を誇る。端的に、現に金はあるのだ。にもかかわらず、多くの国民が豊かさを実感できないのはなぜか?その理由は、富の再分配の構造に致命的な欠陥があるからだというよりほかあるまい。自然発生的なトリクルダウンなどというものは端的に幻想であり、一度手にした利益を企業が自主的に社会的再生産(労働者の生活の質の向上や子どもたち当たらしい世代の育成等)のために内部留保を放出するはずがない。わが家は豊だから、余剰分を隣人に分け与えようなどと通常考えないのと本質的には同じである。まして、利益調整のための調整弁として外国人研修制度を利用するなどもってのほかである。政府は外国人の受け入れに際し、同一労働については日本人と同等の水準を確保するというが、それは眉唾である。私は、以前入管や建設業の許可申請に関する仕事に専門職として従事していたことがある(守秘義務があるので詳細は語れない)が、慢性的な人手不足に悩む建設業の経営者等からは、「柔軟な雇用調整のために、外国人の受け入れ制度をうまく利用する方法はないものか」といった趣旨の質問を幾度となく受けたものである。政府がなんと言い繕おうとも、結局外国人の受け入れを考える経営者は、制度趣旨などは度外視で、要するに彼らを低廉で柔軟に雇用調整できる便利な労働力としてしか見ていないのである。外国人に限らず、日雇いや派遣労働に従事する日本人に対しても同じ目論見を持っていることは間違いなかろう。

 1日8時間、週40時間を超える労働は(36協定がある場合を別として)原則禁止であることを、経営者も、労働者もどちらももう一度思い出すべきである。満足な労働組合の組織されていない企業では36協定すらないまま、うやむやにサービス残業や持ち帰り仕事が常態化している。そこでは、働く人間の人権は無視され、人間らしく仕事と生活を両立するという理想は無残に蹂躙されている。

 人は、生きるために働かなければならない。聖書曰く、「苦しんで糧を得、そして土に帰る」のである。これは、我々人が動物的側面を有している以上、俄かにはいかんともし難い現実である。しかし、尊厳なき労働は紛れもなく悪であり、次世代を育成できない(結婚して子供を持てない)程度の賃金でしか労働できない社会に未来はない。しかも、幾星霜を経た現代(近代)社会にあっては、国家や社会に尽くすために人は労働するのでなく、人間らしく生きるために労働し、労働を通して得られる資力の一部を税金として用いることで、円滑な社会が形成されるよう種々の調整をするために国家が存在しているのだということを今一度心に留めおかねばならないだろう。労働は、生存の手段であることは無論だが、人生を豊かにするための手段でもまたある。従って、職種によって貧富が固定化する社会構造は根本から見直すべきである。

 思うに、有限の人生という時間を労働に投下したことに対して支払われる報酬と、当該労働によって生み出された付加価値を切離し、前者に対しては、まさに健康で文化的な最低限度の生活が確実に送れるだけの基礎的な賃金を社会全体で分配して、労働者の生活と労働力の再生産(つまり子育てをすること)を確保し、その後余剰分を生み出した付加価値の多寡によって応分に分配するような、二重の賃金支払い方法を模索すべきであると考える。

 これは一見、幻想のように思えるが、わが国のGDPをもってすれば、余剰をもって不足を充足して賃金を平滑化した上で、更に残った分を成果によって分配することは可能なはずである。例えば、標準的な人が一生に要する費用に人口をかけて標準的生活に必要な額を算出し、その値をGDPから引いて得られた余剰分を各人が生み出した付加価値の多寡に応じて案分比例で分配すれば、貧困を回避しながら、成果を上げた者には褒章が与えられるという仕組みが構築できると考える。

 これはあくまでも試考にすぎず、今はまだ幻想の域を出ない世迷言であるが、すべての人が人間らしい尊厳をもって働くことの出来る世界、労働に従事している限り明日の心配をしないでよい社会、働く意思がある限り、標準的生活の可能な職を得られる世の中、そういったものを実現したいと思わずにいられない。もし、拙稿を読んで、経済学や数学に強い方がいらしたならばこれに勝る幸福はない。

 西欧では、労働は原罪に対して神が人に与えた罰だという。しかし、だからといって、人間性を失ってまで労働に苛まれるのはやはり人間のありようとして不自然であると思う。労働が、ただ糧をえるための手段としてだけではなく、多くの人々にとって生きるための喜びとなることを切に願う。そして政府には、まるで国際競争のための道具のように人扱うことをやめるよう強く訴えたい。

 私も、小なりとはいえ及ばずながら、労働が豊かな生活の原動力となるために声を上げていきたいと思う。

自由と平等に関する試考

 中世から近代への変遷を経て現代に生きる我々は、いまや自らの人生における自律的な自由と権利を有する。しかし、今なお、その選択から思うままの結果を得る自由を有してはいない。選択の結果における自由を有しない我々に、本性的に選択の自由があると言えるのだろうか?

 我々の生とは、それは第一に与えられた生、すなわち人生という有限の時間を全うすることである。そして、その間に自己実現をなし幸福追求をなすことがその目的であろう。今、我々には自律的に自由を追求する権利を既に手にしている。しかし、幸福を追求する機会を得て自己実現を必ずや成し遂げられる保証はどこにもない。すなわち、現代という時代を生きる我々は、観念上、その尊厳と権利において自由ではあっても幸福追求と自己実現を確実に為す自由はないのである。

 「尊厳と権利において自由である」ということは、擬制的で形式的な観念であって、なにかしらの実質的な結果を保障するものではない。例えば、身体的な不自由があったとしても、現代の社会においては、その者の人権は尊重され、当該人は人間としての尊厳と権利において自由であるとされる。しかし、例えば、右手を欠損している者に、「あなたは、障害の有無にかかわらず尊厳と権利において完全に平等に扱われる存在なのだから、尊厳をもってその右手を自由に用いる権利がある」と言ってみたところで、何らの助力なくそれを実現することはできないのだ。つまり、自律的な自由を平等に有しているという観念は、当該自由の帰結として生じるべき結果についても実質的な平等が実現するということと当然には直結しないのである。

 従って、我々は、平等を形式的で観念的な概念と把捉して多様な個性をもつ人々を擬制的にノーマライズすべきでない。それはかえって平等を隠れ蓑に、不可能を自己責任と連結して実質的には不平等と不自由を強いる結果すら齎すことにすらなるであろう。能力的劣後による不可能は自己責任ではない。むしろそれは尊重されるべき多様な個性を構築する要素の一部でなのであるから、当該不足ないし欠缺は父権的に充足されるべきであって、その父権的充足による過不足の調整を経て実施的に平等を実現すべきことこそが人間存在が形成する社会の目的として設定されなければならない事柄であると考える。

 また、我々は将来を予測することができない。将来、すなわち選択の結果を事前に察知することについては、決定的に不自由かつ無力である。そして、能力や身体に欠缺がある場合には、その不確実性や不自由さは一層大きくなる。果たして、我々は将来の不確実性の檻を脱し、自由意思に基づく選択の自由のみならず、その結果の不確実性からの自由をも獲得することはできないものであろうか。この、将来の不確実性の檻からの自由こそ、現代の次に来たるべき新しい世界において、我々が勝ち取るべき新しい自由であるように思われる。

 かつて、王権神授説に依拠して絶対王政が全盛を極めた時代、力なき市民という名の人々が絶対君主を打ち破って主権を獲得するなどまさに幻想であった。しかし、産業革命を契機とする経済力獲得を梃子にして力を獲得した我々人類は市民革命を成し遂げて、近・現代にいたる道を開拓した。古代において、宗教的不合理と真皮による支配を、科学と合理的理論の発見によって克服したこともまた同様である。

 こうした過去の人類の歴史的歩みに鑑みれば、科学技術の飛躍的発展が続く今、将来の不確実性から解放され、自律的選択の成否に関わらず一定の平等を遍く実現するという事柄は決して単なる夢想ではないように思える。結果の平等の実現は、要するに経済活動の全体から生じる消費財と利潤の適切に分配の問題に終始するからだ。余剰をもって不足を調整するならば、均衡と調整は可能なはずである。そもそも、累進課税制や各種の金融政策及び財政政策は、そのために用意された一種のビルトインスタビライザーであったのではないか。

 我々には自律的な自由があり、自らの意思によって人生を決定する権利を有している。無論、その自律的選択の結果に対する責任を選択者が自ら追うのは自然である。しかし、自由・自立という金科玉条を拠り所に結果の不平等をすべて選択者個々人の責任に帰し、自己責任の一言で結果の不平等を正当化して済ますのであれば、我々人類が社会的結合を為す意味が失われてしまうであろう。競争の勝者の選択のみが正しく、敗者の選択は誤りであったと片づけるのは容易い。しかし、人類史のある限定的な一時点における勝者の選択が、人間存在にとって普遍的に善い選択である保障はどこにもない。事実、第二次大戦前には、列強による武力侵略によって未開人を啓蒙させることは一種の正義であると確信されていたが、今となっては、そうしたいわゆる帝国主義は人類史上屈指の痛切な汚点であり忌むべきものとして認識されるに至った。すなわち、勝者の選択が必ず善なる選択ではないのだ。この事実は、選択の時点において、その結果が歴史的に、あるいは人類にとって普遍的に善なる結果を齎すか否かを知る由が我々にはないことを端的に示していのである。

 従って、自律的な選択の自由の機会が平等に与えられるだけでは不十分であり、また、その選択の結果生じた事柄の全責任を選択者一個に負わせることは極めて不当であり、それは人間が社会的存在であることの否定に繋がるともいえよう。選択の時点で結果の帰趨を知ることができない以上、その選択が客観的に見て無防かつ故意的悪意に満ちたものでない限り、その結果は、第一義的には選択者に帰属するにしても、究極的には社会全体で共有し負担すべきであると考える。なぜならば、選択の時点でその選択の結果を定性的に見通すことが不可能だということは、本性的に自律的な選択をしているとはいえないからである。「自由意思に基づいて選択がなされた。故にその結果はその選択者の帰属する」というためには、選択の時点で結果についても完全に見通すことができてはじめて成立する論理であり、結果の見通しが不明であるときにさえその責任を選択者に負わせるのは全くもって妥当性を欠く。もっとも、無思慮や短慮、怠慢に基づく選択の結果が当人に帰すのは当然である。しかし、適切な努力の過程を経て慎重にされた選択の結果のについては、選択者の能力及び選択の為に費やされた努力と過程に応じて相応に平等な結果が実現さえるべきであると思料する。なぜならば、先に述べた身体的欠損の例のごとく、人間に天賦の人権というものが仮に本当にあるのだとすれば、それは個人の能力や可能性を超克して、あらゆる個性・特性を有する者が、他者の自律的選択を妨げない限りにおいて、人生における充足と幸福を実現できて初めて、その人権は充足されたといえるからである。

 結果の平等の実現は本当に難しい。不可能であるようにさえ思える。思うに、人生の選択において自律的自由を獲得した人類にとって、結果の平等の実現という事柄は今思いつく限りでは最後の課題であろう。私は、世界人権宣言が平等において「尊厳と権利とについて平等である。」として、平等に関し、「尊厳と権利」という留保を付したことを非常に残念に思う。その人らしく幸福と生きがいを抱きつつその生を全うできる平等こそ、実現すべき平等であると考えるからだ。「右手が無くても人間としての尊厳は守られ、右手を上げる権利は絶対的に失われるものではない」と観念的に言ってみたところで、欠損した右手を何らかの方法によって補わないかぎり、その権利は事実上存在しないのと同義である。我々が多くの犠牲を払って獲得した自由と平等という概念を、後退させてはならない。その道がたとえどれほど険しくても、我々は実質的ないし結果的平等の実現にこそ注力すべきであると考える。

 どうすればそれが実現するのか、私のごとき矮小の者にそれは直ちにはわからない。しかし、「分配と補充の再検討」と「それを為すための超国家的(な経済)管理機構の構築」ということはひとつのヒントとなり得るのではないかと考えている。競争それ自体は悪ではない。競争は必ず勝者と敗者を生むが、強者の得た褒章を社会的に還流して敗者を支え、敗者に復活の機会を与えることで更に新しい競争の循環を生み出す構造というのは、決して画餅ではないと確信する。

「覚え書き」カテゴリについて

 この覚え書きカテゴリは、私がふと思いついたことや、書き留めておきたいと感じた事柄(他の文献からの引用を含む)を綴っている、私的な備忘録の性質を持つカテゴリです。

 そのため、他のカテゴリの文章とは文体が異なってりいる、内容に整合性がなく矛盾をはらんでいる、順序が未整理で結論が見えない、論理循環に終始している等、諸所の問題を含む文章が掲載されることがあります。ですから、他のカテゴリーの文章とは異なり、この「覚え書き」カテゴリに記載している内容については、引用等をなさらないでください。また、「覚え書き」カテゴリ記載の文章の内容については、一切の文責を負いませんので、予めご了承ください。

 よろしくお願い致します。

プロフィール

椎央権太:C・O Gonta

Author:椎央権太:C・O Gonta
日本国憲法の意味と真価を記録しておきたいと思い執筆しています。護憲的な記述が多く見えますが、不動の護憲派というわけではありません。憲法とは如何なるもので、改めるべき時宜はいつなのかということを書き残せればと思っています。

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